「盲目」概念の視覚的意味(3)


 今回以降、いくらかの間は盲目という事について、カント以外も含めた哲学者を取り上げつつ考えていきたいのであるが、今回はその問題設定だけでも模索的に言挙げさせて頂く次第です。盲目概念について、どう哲学史的に考えたら良いのか拙いながら手探りしつつ。
 そんな中、ここで殊に注目したいのは、世界の果てと、その外部に成立するような「境界」ということ。有限性と無限性の境界という事にも視野を置きつつのそれ。
 デカルトの生きていた当時のヨーロッパで世界の果てとか、「境界」という事柄には、今とは異なる意味、感性が伴っていたのかもしれない。
 例えばデカルトの『方法序説』(以下、『方序』と記す)は、そうした「境界」を越えていく事自体を「旅」としていたのかもしれない。人間の認識と存在の有限性と無限性の境界を越えていく旅、そこでの偶然性。そんな事を考えつつ、最後には、以前からこのブログで取り上げている「盲目的偶然」というタームの本質へと迫りたいのである。
 ところで、そうした中でもう一つ気になる事として考慮に入れておきたいのは、プラトンの『国家』に出てくる「洞窟の比喩」の事である。闇に包まれている洞窟から人間が視線の向きを変え、洞窟と外の世界の「境界」を越えて日の当たる世界に出ていくこと、場合によっては「旅」に出ていくこと。
 こうした中で、人間の視力、視覚がその有効性を変化させ、「盲目」であることの意味合いを保ち、又変化させるのか。古代や近世での国家と外部を考え合わせつつ視てみると。
 そうした事についても頭の片隅に置きつつ思索を進めたいのである。

 さて、私がかつて、カントの『純粋理性批判』の「理想章」の注において感じ取っていたのは、概念が包まれ且つ包む(池田善章氏の使用されたターム、あるいは言い方)事象における「親和性」という事であった。そのことは視覚(論)においても現れる。どのように現れるか。一つには最近本ブログで私が着目している「盲目」という概念の扱いにおいてである。
 それでは、「盲目」概念は、抽象的概念か、感覚的概念か。
 上述の池田氏の言い方を借りて言えば、視覚は感覚的に光線を受容し、包まれるという事と、概念によって「外部」の世界、外界を捉え、抽象的で包括的な解釈を成す事が相即的な中で現れるのではないかという暫定的説に、私は思い至る。
 そこで「盲目」は、どう位置づけられるか。そう考える時に、上述の命題が現れる。
 この事を例えばデカルトにおいて考えようとする時、まず考慮に入れなければならないのが「無限」ということであろうか。いや、それはおかしい、「無限」などと、上述のプラトンの登場する古代から西洋的哲学においてさんざん、飽きるほどに問われすぎてきたことではないか、あえてここでなぜ取り上げるのか?

 こう問うた上で、その問いを私は、デカルトの「方序」においてまずは問い直していこうと思う。

 その出発点として、以下の『方序』の第5章の一節に注目するところから始めてみよう。

「しかし画家が、平らな画面に立体の異なったすべての面を同じように表現することは不可能だから、その主要な面のひとつを選んで、その面だけを光のほうにむけ、ほかのもろもろの面は陰において、われわれがこの日向になった面だけを眺めることによってはじめて、ほかの面が見えるようにするのとまったく同じように、わたしもまた、この論説中に自分の思惟のなかにあるすべてのものを盛ることはできないであろうということをおそれて、わたしはそこで自分が光について考えていたことだけを説明し、なおその機会に、光はほとんどすべて太陽と恒星について、天空は光を伝えるものであるから天空について、遊星、彗星および地球について、なかんずく地上に存在するすべての物体について、なかんずく地上に存在するすべての物体について、最後に人間はそれら物体の見物人であるから人間について、若干の事柄を付け加えようと企図したのであった。・・・」(小場瀬卓三訳・角川ソフィア文庫・2011年・角川書店

 ところで、かつて大森荘蔵氏は、『物と心』(東京大学出版会・1976年)の第10章「虚想の公認を求めて」で以下のように述べておられる。

「立方体の今見えてない一つの側面の知覚的思いでは、その側面が知覚正面と『思われ』、今見えている知覚正面はしこでは『見えていない』一つの側面として『思われ』ることになる。」
 そして、大森氏の他の著作では、こうした知覚正面の視覚風景の「無限」集合が、或る種の知覚世界であるとされる。

 してみれば上述のデカルトの文において、或る面を光の方に向ける、つまり光に包まれるようにする事と、或る面を選んで抽出し、かたちを表現するために、形の存在を抽象概念によって、「立方体である」とか、百面体であると規定することは、包まれ且つ包むことの萌芽と見れないこともない。
 さて、そうした議論で考えられる「面の数多性」と、視点の多様性、さらには上述の視覚風景の集合を形成する視点の「無限性」は勿論必ずしも一致しない。
 こうした有限な数多性と、視点の無限性は、デカルトにおいて、殊に「魂」との関連においてどうなっているのだろうか?どのような関係付けがあり得るのだろうか?なぜこう問うかと言えば、他我、他者の魂というべきものは、その他者の何らかの身体的行為、及びその結果から推論されることが多く、それは立方体としての身体の行為に付随するものだからである。その立方体への視点のありようは、他者の「魂」への態度そのものを形成するはずだからである。
 上述の冒頭の方の「盲目」への問いを、こうしたことに焦点を当てる中で、これから(主に『方序』において)しばらく考えてみよう。
 そう問題を設定した上で、以下の二つの引用を見てみよう。

 まずは先にも引用した大森氏の『物と心』の別の章(第3章「痛みと私」)の或る箇所を見てみよう。

 「・・・だがそう言う人は色盲の人に向かって、あなたの今見ている空の色はあなただけのものであってあなたの内側にしかあり得ないのだ、と言わねばならない。当然その色盲の人は、それならそう言う君の見ている空の色も君の内側にあることになる、と答えるだろう。こうしてすべてわれわれが見るもの聞くもの味あうものがことごとく主観的なものにされてしまう。これはプラトンの洞窟の比喩の再現である。・・・
 この比喩においてすら、見られた色や形は五体の外つまり洞窟の壁にあるのであって五体の内部にあるのではないことに注意して戴きたい。それなのにどうして悲しみが五体の外部にあってはいけないのだろうか。」
 ここでの五体とは、(上述の言い方に直せば)身体という立方体であり、「見られた」という「見る」ことの可能性としての視覚と、身体が世界に包まれていることを、大森氏は洞窟の比喩において表出されている。

 もう一つは、上述の邦訳の『方序』第6章からの一節である。
「目あきと対等に闘うために真っ暗な洞穴かどこかの奥に目あきを連れこもうとする盲人にそっくりだと思う。」

 五体の外部としての洞窟の壁と、洞窟という空間の外部としての世界から目あきを連れ込む洞窟の内部。洞窟の中の盲人にとっては、目をつぶった時の闇と、目を開けた時の闇はどのように異なるだろうか?
 生まれてから縛り付けられ、洞窟の中しか知らず、そこのみしか「世界」と規定出来る空間を所有せず、しかもその主体が盲人だった場合、闇と光の差異を知り、身体の外部の世界の本質を知るには、洞窟の外に出て旅をしてくるのが良い手段なのか?(ここで取り上げた比喩としての洞窟は、個々の身体なのか、組織としての国家なのか?)

 身体という立方体が世界に包まれていること。
目が世界の光に包まれつつも見えないことと、光なき闇に包まれて、目が見えない、その機能を役立たせられないこと。それらは感覚的に成立しているのか、推論された上での概念、事態なのか?
 さらに魂と、魂が向かう方向、魂の光の発出する向きとでも言うべきものは、自らの位置をそうした(洞窟のような)空間でどう在ると表現出来るのか?

 これらの事柄を、これまで述べてきた旅とか洞窟の事を考慮に入れつつ、哲学テクストにおいて考えることをしてみたい。
 
< 今回は、冒頭にも書かせて頂いたように、こうした拙い問題設定だけで、とりあえず終わらせて頂きます。次回からテクストに即して、具体的な論述の展開させて頂きます。

 申し訳ありません。>