「盲目」概念の視覚的意味(2)


 前回の最後に述べたカントの「プロレゴーメナ」の鏡に関する箇所と、純粋理性批判(以下、KrVと表示)弁証論付録(以下、「弁付」と表示)の箇所の対応は、カントが挙げる鏡、「鏡像反転」と、直接そういう言葉は出て来ないけれど、「合わせ鏡」というべきものとが相関するといえる構造が、その根底にはあり、そうした鏡像反転と合わせ鏡の位相は、カントの「無限」「有限」へのスタンスに通じている可能性を、私は考えている。そうした可能性において、上述の対応を、更にはカントの文脈での「盲目」を考えたいのである。
 合わせ鏡の狭間において、有限な宇宙がどう映り、場合によっては無限な宇宙となるのか?そうした事を手探りする中でである。
 そのさわりの部分を、汎通的規定性の原則と「否定」との関わりを考えつつ、以下で示し、上手く行けば、その関わりがアリストテレスから受け継いだものであるか提起してみよう。 

 カントにとっての「汎通的規定性」は<その個体のあらゆる賓辞が予め決定済みでなければならぬ>ことであると言われる。そしてそれをカントは否定しようとしたと言われることもあるかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか。そこにはこれまでには知られていなかった新たな物事・事象を「発見」することが相即不可分のこととして在るのではないだろうか。汎通的に規定された究極のものは神であろう。その特権的な他(者)としての神は、汎通的に規定されたものであると同時に、その規則から逸脱した事態をも、その理論構成に取り込んで新たな性質を発見される位置にあるのではないか。或いはそのような神は、(或る超越的な立場から)規定されるそれぞれの<私>の本性でもある。前以って決定済みであるとともに、その決定済みであることによる「汎通的規定性」の原則が、あるいはその原則における親和性の規則がはじめて自覚され、効力を発揮するのは、これまでの規則からは逸脱した新たで未知な何かを(他なるものに)見出そうとし、あるいは現に見出し、同時にそのことでそれぞれの<私>の未知な要素に気付くことにおいてである。
 ただ諸述語を前以って(アプリオリに)知り、その間に矛盾を見出すだけではなく、それを乗り越える何かの「発見」なしには、「個体」の規定をする規則、あるいはその規則を自覚的に守ることはあり得ない。そしてそうした「乗り越え」が起こっている時に、上述の「規定」と「発見」の運動も起こっている。個体を規定することで、或る個体が外界のものを視ること自体を表出するのである。 
 以上のような見地から、カントは「汎通的規定の原則」を「否定」したのではないのではないか、ただこの原則と「発見の原理」が相即不可分であることを強調したかったのではないのか、と私は考える。あくまで或る個体の考えられ得る述語による特徴付けをしつつ、しかしそれを逸脱する新たな事態へと適応することにおいて、他の誰もが気付いていない新たな何かを発見する、或る側面において「視る」プロセスこそが、カントにとっての「個体化」なのである。しかしそこには今述べてきたような、又違った意味での「否定」が内含されているのである。
 繰り返しになるが言い換えれば、「汎通的規定性の原則」という「規則」について、「否定的」な見解を抱きつつも、ただそれを単純に否定し去るのではなく、そうした「否定」そのものが、概念相互の間においてどう位置づけられるかを、カントは慎重に見極めようとしているのではないか。「否定的」にとらえられること自体は「否定」されうるのか。こうしたことへの、カントの繊細な思慮が、どこかで間違いなくあるのではないか。
 さて、それでは以下でこの「発見」と「規定」のプロセスを、anzeigen(以下、azと表示)とangeben(以下、agと表示)への、テクストにおけるカントのペアでの使い方と共に見てみよう。
 本稿に限定した意味での「超越論的」なるものは、この「発見」と「規定」の二重のプロセス、運動が、「超越的なもの」についての作用において起こる時に現れる事象、というのが、先の定義であったが、この「超越論的」ということが、「否定」とどう結びついて「超越論的否定」となっているかを、「視覚」のことを中心に考えてみよう。
 カントにおいて、外延は徴表(merkmal)としての概念のもとに含まれているものであるが、そうした「もと」にありつつ、暗示された徴表を目指すこと、見出すこと、又そうすることにおいて、外界の事物を(直接に)指し示すこと(見ること)、この二つの意味が重なった所に、anzeigenが使われる。そしてこの「目指す」という所に、「虚焦点」などの光と「視覚」についての比喩が見られる。
 一方で内包はカントにとって、概念が部分概念として、諸物についての表象の内に含むものだが、そうして内に含む、含んでいくこと(方向・領域)にangebenが使われている。直観から多様を受け取り、且つそれを掴み(begreifen)、概念(begriff)としていく、それは人間が認識において或る瞬間の内へ含み、その瞬間を(幾何空間において)無限分割していくものであり、且つ、概念の内へ(<瞬間>も含めた概念の内へ)含んでいくこと(implicate)、内へとはらんでいくこと(begreifen)、と共に「外」へと表示すること、これらのことにangebenは対応している。
 しかもazとagがペアになっている側面が、勿論その局面にもよるが、あると思われる。azが外界の事物を指し示し、且つ「暗示」された概念としての「徴表」を目指すということであったのに対して、agは、そうして指し示し、且つ目指すそのプロセスにおいてのratio(比例)、又その認識を成立させる条件・機能ということを、上述の概念が自らの内に含んでいくことに重ねていくところにあると、私には思われる。

 言い換えれば、素材としての諸現象は、外界の或る物、あるいは物自体といって良いものを、「暗示」するというところに、azは使われ、その暗示を通じてその物自体を「指示」するというような概念構成となっている。
 例えば「現象という語は既にあるものとの関係をazしている」(KrV・A252)という文がKrVのA版の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」(以下、「可/現」と表示)という章にはある。又「判断力批判」(以下KdUと表示)では「悟性は、自己のアプリオリな法則が自然に対して可能であることによって、自然が我々にはただ現象として認識されるということによって、自然が我々にはただ現象として認識されるということを証明し、従って、同時に自然の超感性的基体をaz(暗示)し」とある。同じくKdUで、物自体は超感性的であろう(KdU・ⅩⅨ)、とカントは述べているが、いわば、現象が物自体を暗示するというわけである。
 一方で、agは経験の可能性、及びその条件、更にはそれらが成立する根拠が「示される」という箇所、もう一つはその可能性、条件に従って、あるいはそれらに従った上でのカテゴリーによって、感性に「与えられた」現象をフェノメナとして明文化し、「示す」というところで使われており、言わば、以下に示す「表示」ということに関わる、一連のプロセスを「示す」という所に使われていると思われる。
 即ち、カントにとっての認識の源泉は、直観と概念である。対象によって触発される能力として感性が受容するものは、その当の対象を「指示」しているような表象としての直観であろう。これに対して、概念の能力である悟性は、この指示という性質を含んだ諸表象を諸々の原則を通して明文化する「表示」能力、直観の多様を語り得るものにするための多義的な能力である。それ故「概念なき直観は盲目」であり、また逆に「内容なき思考は空虚」であると主張するカントにおいて、対象の認識は、一つの表象を指示する受容性と表示する能動性という二つの性質から構成することである、と言い換えることが出来るであろう(この段落は、江川隆男氏のご教示・表現の引用による。)。
 そして、上述の如くazとagは合わせ鏡となると思えるのだ。
それではそれはなぜかを、以下で少し探ってみよう。

 上述の「可/現」のA版で、「感性のあらゆる条件を捨て去り、カテゴリーを物一般の概念と考えるとすれば、・・・カテゴリーが元来どこにその適用とその客観とを有するか、従ってカテゴリーが元来どこにその適用と客観とを有するか、従ってカテゴリーがいかにして純粋悟性において感性なくして、何らかの意味と客観的妥当性とを有し得るかを、少しも示す(azする)ことが出来ないのである。」(KrV ・A242)とあり、又一方で先に述べた同じく「可/現」のA版の別の所では「現象という言葉が既に、その直接の表象は勿論感性的ではあるけれども、しかしそれ自身としては、我々の感性のこのような性質を欠いても、なお残るもの、即ち感性から独立した対象たらざるを得ないようなあるものへの関係を示す、という文脈がここにはある。
 一方で同じく上述の「可/現」の少し前の「経験の第三類推」のところで、「一つの客観が存在すれば他の対象も又同一の時間に、即ち同時的に存在するということ、そしてこのことは知覚が相互的に継起し得るための必然的条件であるということを、agするものではない。」(KrV ・B257)とあり、又少し後の「反省概念の二義性」では、「現象としての実在的反対を生ぜしめる経験的条件を、一般力学は、アプリオリな規則としてagすることが出来る。(KrV・B329)とあり、その実在的反対を考えてみるための条件は、感性においてしか見出され得ない、としている。ここでは感性があるからこそ、agされるプロセスについて語られていると言って良い。
 こうして見てくると、感性無くしてazされることはないということが述べられる文脈と、感性において成立する経験的条件がagされるということは、言わば合わせ鏡のような関係にある、と思えるのだ。
 先に、感性が受容するものは、その当の対象を指示しているような表象としての直観と述べたが、その指示のプロセスの一つとして物自体の暗示、azはある。それは感性があるからこそ、受容される、そして機能するプロセスである、一方でこれも先に述べたが、悟性は、この指示という性質を含んだ諸表象を原則を通じて明文化する表示能力であり、その諸原則、及びそのための経験的条件の「示し」は感性があってこそ成立する。言わば「感性」ということを通じてありうる、直観と概念が作用するに際しての「暗示」と、「明文化」のためのプロセスの「示し」ということで、繰り返しになるが、これらazとagは合わせ鏡となっている、と私は考えるのだ。

 ところでカントは、問題の「理想」注の少し後の、あらゆる可能な述語について述べる所(KrV ・B602)で、論理的「否定」はもっぱら「非(nicht・non)」という小詞によって示される(angezeigt)と述べ、論理的「否定」が概念と概念との「関係」に存するものであると述べている。そして超越論的肯定が及ぶ限り対象は「物」であると述べる。
 即ち、ここでの論理的「否定」が、「概念」に属するものではなく、「判断」における二つの相互の関係に属するものである、とカントはする。そうした「関係」での「否定」が、angezeigtされるとして、例のazの変化形を使っている。
 さらにそのすぐ後の段落で、「否定」の概念はすべて派生的なもの、とし、又対立する肯定が根底に存しなければならない、とカントはするが、その説明として、正に「光」と「視覚」、更には「盲目」の人である盲人について述べるのである。
「生まれついての盲人は、闇がなんであるかを知らない、彼は光を知らないからである」(KrV ・B603)
カントにとって超越論的理念とは、理性の統制的使用での虚焦点(岩波文庫の但し書きによれば、光がそこから発するかに見える鏡面の想像的焦点)であると、「弁付」では述べられている。上で述べたKrV第三類推での、遠い天体や「理念」を、カントは「光」に喩えつつ思考している。「物」や「概念」そのものではなく、その「物」と私たちの「眼球」との相互作用において「示される」、しかも、そこに光が、そこから発出するかに見える、あるいは派生するかに見えるものとして見られる、という所に、azが使われるのである。
 それは「関係性」としての否定に属しつつ、しかしそれからは一歩抜け出た所で、そうした「否定」を、否定のプロセスを見極めようとするカントの姿勢に伴うものではないのか。それは上述の、徴表を指し示し、かつ目指すプロセスに重ねられるものと、私には思われる。そしてこうした「否定」とそのプロセスへのカントの視点が、冒頭で述べた、相互性から一歩抜け出た、唯一の事物の中に可能性の総体が見出される、ということをカントが、「否定的」に述べていることに通じていると思われるのだ。

それでは、ここまで進んだ論を前提に、これ以上の探求の為に私が、考慮の前提にしたいこと、考えたいことを箇条書きにしてみよう。

(1)
アリストテレスが欠如と並行して挙げた否定は、カントにおいての世界を観察する或る何らかの視点の「場所」を「否定」する可能性の起点と同一か?
或る特定の場所から「視る」という事象が起こっているという事は、他の視点から眺めた物事の現れ方を「否定」する可能性を探ろうとして、特定の視点から物事を視ている事が、「可能性」としてあり得る事を意味するのか?

(2)
アリストテレスは、盲目を欠如として取り上げている。欠如にも多くの異なる意味がある、否定的な意味を表す語の意味にも色々あるように、と。両眼ともに視力を有しないのが盲目で、片目の人は盲目ではないと。しかしだから善と悪が必ず二つに分かれるのではなく、これらの「中間」があると言う。

(3)
KrV弁証論付録に出てくる「無限数の中間項」という概念。
この中間ということは、(2)に書いたような、アリストテレス以来の形而上学から引き継がれた概念であるのか?
しかも、先に述べた「無限」の形而上学的扱いと深い関わりがあるのか?

(4)
カントにおいて、無限あるいは無限遠という概念は、「盲目」という事象に相関していたと考えられる。
何らかの対象を視る視点と、無限、無限遠に続く宇宙空間への消失点。対象としては消失しつつも、存在的概念としては、眼球を向けている。それを「盲目」という概念で位置付けを探っているのではないか?
視えてはいない、しかし「身体」はその消失に包まれるのである。線型時間において、右から左に時が移行する、という「線」では割り切れない消失点を、「身体」は包み、且つその消失に包まれるのではないか?
この身体、場所の考え方について、カントはアリストテレスから受け取ったのだろうか?

(5)
以前にこのブログでも述べたこともある、カントの「盲目的偶然」という概念。
この概念を考える際に、「偶然」は、果たして過去形の概念か?と問うてみよう。これは、一ノ瀬正樹氏が、複数の場所で述べておられる問いである。
過去と現在の非対称性を鏡像反転と共に考える。そうした視覚的位相・意味と「盲目」という間にある隔絶と連続性を、今回のこのブログに書いたことと、そうした「過去形」への問いと共に考えてみるとどうなるだろうか?