「物の廃棄・崩壊を前にしての『経験』とは?」-ゴミ収集の現場から-(1)


(以下の文章への注意書き)
〈 私は、自分のブログにおいて、公立の清掃事務所で臨時職員の立場でゴミ収集をする者として、又ゴミを廃棄する一住民として、「物の廃棄・崩壊を前にしての『経験』とは?」と問いたいのです。
それは、物質の崩壊と生成を繰り返す生命個体が、なぜ個体性を維持し、超越論(先験)的判断を必要とするかを問う、私のブログでも提起している、生涯をかけた研究テーマに根底で通じています。
しかし、今年の4月のブログ開設以来、これまでいくつか書き散らした文章らしきものが理論的な面のみだったのに対し、そのゴミ収集への問いはどちらかと言えば実践的な面から、同じ提起を考察します。
ただ、哲学の問いを持ちつつ、ゴミ収集現場で臨時職員として働いている経験をも持つ人間は、あまり他にはいないかもしれないので、そういう視点からこそ見える実践の理論的側面をも逆照射出来れば、幸いなることとも考え合わせています。
今回の掲載分は、上述の問いかけのいわば試運転であり、時々同じテーマで気が付いたことがあったら、これから順次不定期に、書き連ねていこうと思います。
又、だいぶ前にFacebookに書いたものを、再利用する文章であることもお伝えしておきます。〉


臨時職員、派遣職員等の立場で私の見て来た範囲での東京都23区の中の幾つかの区の公的なゴミ収集の現場では、少なくとも2つの差別が絡んでいる。

一つは、端的にゴミ収集自体が、汚く、あまり知力を使わない仕事であり、上等な仕事ではないとする(多くの場合に誤解に基づく)差別を広い社会的文脈において受けることである。
しかし、もう一つは、そのように単純ではない。
まず、そうしたゴミ収集への差別に抵抗する為ということも多少絡む可能性において、ゴミ収集の「経験の時間」を神格化する。30年間の経験がある、と言うように。さらにそこに、誰それとは10年の付き合いだから、と言うような村意識で、臨時職員を含めたよそ者を排除、差別化することが加わる。
しかし、ゴミ収集の現場は、どんなに長年の経験があっても、毎瞬間に変化する、全体を把握し難い面がある。
ついさっきゴミ収集を始めたバイトの人間と、30年来のベテランとは、同じ程度に間違う可能性がある。
それはゴミ収集の現場で起きる狭義の物質的事象(物の廃棄・崩壊等の)に対してのみではなく、ゴミ収集をする人間、例えば自分以外の正規職員、バイト職員の「行動」への誤判断ということもある。様々なことを多方向に向けて行うゴミ収集の現場においては収集員のお互いの行動というのは、目の前にいるようでありながら、中々把握し切れない面があり、単純にその面が現場行動にとって決定的だったりする。
もちろん経験が現場においてものをいう場面もある。長年の経験を尊重しつつ、逆に「経験」とは全く関係なく、毎瞬間ごとにバイトと正規職員は、現場の出来事(ゴミ収集をする人間の行為の内実も含めた)を平等な立場において、出来得る限り冷静で正確な言葉において話し合う必要がある。そういうバランス感覚が必要である。
しかし、多くのゴミ収集正規職員は、いつもではないが少なくない確率において(上述の、差別への抵抗の為に、ということもあるのだろうか?)、そうした平等さを避け、無根拠に自分たちの「長年の経験」をどこかで半ば無根拠に持ち上げたがっていることも、時としてあるように私には感じられる。
そして彼らは、「長年の付き合い」を持つ同士でどこか村社会を作りたがる。清掃正規職員、あるいは養生会社のドライバーとの間において。バイトの人間が、「長年の経験者」の意見に楯突こうとすると、あまり大した思慮も為されることなく、多くの場合、極端な拒絶が彼らによって為される。

かくして上述のバランス感覚は、ずっと失われていく悲劇は続く。
この悲劇を、なんとか改善出来ないものだろうか?

本当は、今こそ、労働者は正規職員とバイト職員、派遣職員、臨時職員が、お互いのコミュニケーションを少し過剰なくらいに見つめ直し、常に常に常にきちんと意思疎通が、相互の行動理解が出来ているかを、毎瞬間毎瞬間(本当に毎瞬間毎瞬間)チェックして、お互いに排除し合わず協力し、労働者への不当な搾取や圧迫に抵抗すべき時なのに。

「バイトの連中はガタガタ言わずに黙って俺たちについてくりゃ良いんだよー!」的な文言と意識は、長い目で見れば自分で自分の首を絞めることに、ゴミ収集正規職員達は気付かなければならない。

その気付きのなさの前では、「ゴミ収集の職場経験」の30年、40年、いや50年などというものは、本当にどうだっていいものだということ、屁でもないということを。

このことを私は強く言いたい。
そして物質・物体が日常生活の文脈から離れ、廃棄物として分解、崩壊することに労働として関わる「場所」において、労働者の、いやもっと広く人間の「経験」とは、更には「先験的」なものごととは何なのかを、私は改めて考えざるを得ないのである。