「盲目」概念の視覚的意味(1)


 カント(少なくとも批判期のカント)は、「盲目」という言葉(あるいは概念)に、どのような視覚的意義とその否定を込めたのだろうか?
 カントにおいての「能動と受動」へのスタンスの或る部分は、「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(KrV B75)という言明のもとに表出されている。「盲目」という概念を通じて「能動/受動」が考えられている。
 ところで、これまでも示した純粋理性批判(以下、KrV)の「理想」章での汎通的規定性を取り上げつつ「親和性が証明される」と述べられる箇所には、言うなれば親和的な「関係」が証明されるという意図が込められている。そして「受動」の性質も込められている。否、それに留まらず、受動的であり、かつ能動的な何かが、その「証明」にはある。少なくとも私は、そのような仮説を立てているのだ。
 更にカントにおいては「関係」のカテゴリーには相互性の関係があり、その親和性の証明の箇所には、そうした関係が含まれる。
 このカテゴリーのもとである判断の「関係」の三つの内の選言的判断について、カントは一つの命題を挙げている。
「世界は盲目的偶然によって存在するか、内的必然性によって存在するか、外的な原因によって存在するかである。」(KrV B99)
ここには「盲目」という形で「視覚」とその判断、思椎、そしてすぐ後に触れる「思考」との関係が含まれている。
 マーティン・ガードナーは、非生物の世界と生物の世界とのギャップを埋めるために提出される説として、「偶然と自然の法則が組合わさって作用する」という説を提示し、それを「盲目的でない偶然」と表現した(『新版 自然界における左と右』、1992年、マーティン・ガードナー著、藤井昭彦他訳)。「盲目的でない」という表現には、たしかにそのような「自然法則にも適合した」という意味もあるだろう。そしてカントが「盲目的偶然」と書くとき、逆に自然法則に適合しないという含意も半ばにおいてあるに違いない。しかし、そう言った意味合い以外に、いわゆる「視覚」的な意味そのものも、カントのテクストには確実に存在するのではないか。それも、自然法則への「適合性」という事と無縁ではない形でである。適合的であるだけでなく、「視る」という「能動的な」意味を持つように思えるのだ。
 してみればカントにおいては、視覚そのものと視覚モデルによる思考・表現があると共に、そうした視覚モデル等を或る種微妙に否定し、「身体」感覚を表現しているところがある。少なくとも私にはそう思える。この事を、カントが述べる「思考の方向性」に或る種内含されると私が考える「時間の方向・向き」及びそこで措定される「瞬間」への観点を考慮に入れつつ考える事は可能か、しばらく(何回か)模索してみよう。今回は、その小手調べである。
 因みにここで一つ私が前提としているのは、このブログで前回に取り上げた福岡伸一氏の『福岡伸一、西田哲学を読む』(2017年、明石書店)
では、シュレーディンガーの『生命とは何か』では、「すべての物理現象に押し寄せるエントロピー(乱雑さ)増大の法則に抗して、秩序を維持しうることが生命の特質である事が指摘されていた、との記述である。そしてここでとても大切なのは、物理学者だったルドルフ・シェーンハイマーの言葉として、同じ福岡氏の本にで提示された「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という記述である。ここでの「絶え間なく」は即ち「瞬間瞬間」という意味が含まれていると私は捉えるものである。いかなる瞬間にも、「非生命(生物)的」な物質が無秩序な崩壊へと向かうなかでの生成がなければ「生命(生物)的」な個体性は成立しえない(上述のガードナーの意見を想起して頂きたい)。
 こうした「瞬間」を、上述の文脈での「思考の方向性」を「時間の向き」という事象に重ねる形において、私は考えたいのである。更に、予測のつかない「偶然性」の中での、上述の無秩序な崩壊をも考えたいのである。
 又そうした中で、カントが身体と空間、及び思考の方向性をめぐって、anzeigen(以下、azと表示する)とangeben(以下、agと表示する)いう二つのタームを使い分けているのではないか、という、かねてからの私の仮説の検証まで、ここでの私の考察が進めば幸いに思う。

  それでは考察を始めよう。
非視覚的ではあるが、否定的に、虚焦点として考えられるものが、理念としてある。少なくともカントのテクストにおいては特にそうである。
 今現在、「瞬間」とは、人間の言語行為、或いは線を引く、という形のことをされた上で、しかし否定的に<与えられたもの>、感性的直観において、与えられたものとしてある。
 無限空間が「与えられる」中での直観において、与えられる。
 更に視点を変えれば、意図的に、「能動的」に、作図したり、線を引いたりする中で、意図外部的に与えられるものごとがある。光が、感官において与えられる第三者であるように。

 ところで、私はここでの議論を始めるにあたって、「物体」についてを、「立体」としてここでは扱ってみよう。それは「身体」をも内含するものである。
 様々な位置から、無限な視点から、そうした立体は異なった見え姿がある。5秒前はここの位置から、5秒後はこの位置からというように。立体は無限の視点からの見え(姿)を簡単に作図する幾何学的方法がある。私が汎通的規定という時、そうした「物体」への視点とその立体形状、及びその幾何学的方法を考えている。その無限な見え方の集合として物体はある。そうした中に「否定」はある。例えば幅のない線とか、広がりのない点というように、「広がり」とか「幅」ということも、あるいは(例えば)ここの視点からは楕円であったのか、もう少し上からは円とか、そのような、~ではない、ここからは円だが、ここからは円ではない、というように「否定形」で考えられる何かがある。
 二点間にはただ一つしか直線は引けないか、何本も引けるか、この事も、引いてみる中で、そこに二本引けないか、幅がないとは、広がりがないとは、と理解できる。一本の線も、書いてからそれを視るまで微妙な時間差がある。しかしそれを書いてみることで、広がりのない「点」としての点時刻を理解することが出来る。一点では理解しえない、あるいは(過去として)振り返られる中で初めて理解される「今現在」ということも、線を引いてみて、引いてみる前、引いてから少したった後、そういったことの中で、そうした幅や広がりがない一点ということを理解出来る。それは「書く」という能動性と、書く中で視えてしまう受動性と、視る(視ようとする)という能動性が、入り混じっている事象なのだ。
 「点」にしても、物体にしても、そのようにして、ある理解をしようとすることについて、一度は否定されることを通じて、その集合として理解出来ることというのがある。幅がない、広がりがないという否定形である。
 カントが無限空間を制限する中で、二次元的な図形が規定されるというのも、無限の広がりを持つ空間への直観を持った上で、それから否定的に、そうした無限の広がりが「ない」という形で一つの図形を規定出来る。「瞬間」も、幅を持た「ない」線として、線形の時間において、理解される。線を書く中で、書いてみることで、「一点」では覆い切れ「ない」、無限に分割されていく「瞬間」を理解出来る。
 「外」に「形」として「線」として、立体として、何かを書く(能動的行為の)中で、そうした「瞬間」を、<否定的に>理解するのである。
 例えば無限空間への「直観」を持った上で、広がりの「ない」、二次元的広がりの「ない」点が、「ない」という形で理解出来る。又、点というものでも覆い尽くせ「ない」、「瞬間」の無限分割が理解される。それは感性的直観を持ち、かつ、そこから否定的な言明、概念、そこに必要とされる悟性をそこに一致させていくという、悟性と感性の一致があり、そこにこそ、私が今回に冒頭から言及したKrVの「理想章」の文脈での「親和性」はある。

 視覚を所有しない人間、言わば盲人が、外界を文脈的に理解する。例えば大「過去」のものは、直接視覚に「与えられて」おらず、いわば、それについて「盲目」である。しかしその上で、否定形を含め、概念として、外界の事を理解出来る。視覚が「ない」という形で、正に「否定的に」視覚によってとらえられるはずのものを受け取る。非視覚的、non視覚的なことも、正に文脈的に、否定形とはいえ、視覚的なものをとらえる中で、はじめて成立する。それも、言語的な「意味」の回路網において理解されるのである。視覚感官からとらえられる性質のものを、例えば全盲の人でも、意味的にとらえられる事をここでは考えると、分かりやすい。
 ここでのカントについての議論においては、ただ視覚モデルをめくらめっぽうに拒絶するのではなく、「否定」という事象を成立させる文脈的意味のネットワークにおいて、外界を、あるいは他者の意図を理解する事を得策とするのである。
 私はカントが、人間の認識について「視覚モデル」のみで考えようとしていると言い張りたいのではなく、正に「否定的」とはいえ、視覚的なものを、文脈的に理解する中で成立することがある、ということを言いたいのである。例えば<今現在>とか<瞬間>を、視覚的に表現することはできないとしても、しかし<できない>という否定的な形ではあれ、視覚的に表現することが、プロセスとして必要なのである。
 全盲の人に、「今」という瞬間を説明する時、その人の手を引きつつ、例えば砂の上に線を引いて、少し前、今、と何かの線を一緒に引いて、時間経過を体験してもらい、且つ、その線上の一点を通過する、というところに<時間経過>がある種現れる、としつつ、でも<瞬間>というのは、そうした線的幅、いや点でさえも覆え「ない」と<否定的>に表現する。たとえ、視えないものであっても、しかしまず視覚言語において、全盲の人に伝える中で、その中で「視えない」部分、事象を「否定形」によって伝えようとすることを、私は考えている。
 カントは視覚では覆えない認識の部分があることを十全に理解していたであろうが、しかしそれを<否定的>に、しかし積極的に、文脈的に、(意味の回路網的に?)取り込み、その中で、五感を含めた認識を考えている。そしてそれこそが、虚焦点とはいえ、<理念>として目指される<光>のように、視覚的にとらえられるものがある。むしろ、視覚では覆いきれないものを、その否定形において取り入れ、それを虚焦点として目指すところに、カント的な<理念>の一側面はある。
 視覚自体が、言語的に構成される面、又、非視覚的な感覚でも、「視覚」によってとらえられるものを<否定形>において(文脈的に)とらえられる中で、成立することがある、とまとめれば私はそう考える。

 そうした際の虚焦点としての理念を「示す」という事、あるいは又、カントにおいて、徴表(merkmal)としての概念のもとに含まれているものであるが、そうした「もと」にありつつ、暗示された徴表を目指す事、見出す事、又そうする事において、外界の事物を(直接)に指し示す事(視る事)、この二つの意味が重なった所に、anzeigenが使われる。そしてこの(そうした方向を)「目指す」という所に、「虚焦点」などの光と「視覚」についての比喩(類比・類推?)が見られる。
 一方で内包はカントにとって、概念が部分概念として、諸物についての表象の内に含むものだが、そうして内に含む、含んでいくこと(方向・領域)にangebenが使われている。直観から多様を受け取り、且つそれを掴み(begreifen)、概念(begriff)していく、それは人間が認識において或る瞬間の内へ含み、その瞬間を(幾何空間において)無限分割していくものであり、且つ、概念の内へ(<瞬間>も含めた概念の内へ)含んでいく事(implicate)、内へはらんでいく事(begreifen)、と共に「外」へと表示する事、これらの事にangebenは対応している。
 しかも冒頭に書いたように、anzeigenとangebenがペアになっている側面が、勿論その文脈にもよるが、あると思われる。azが外界の事物を指し示し、且つ「暗示」された概念としての「徴表」を目指すという事であったのに対して、agは、そうして指し示し、且つ目指すそのプロセスにおいてのratio(比例)、又その認識を成立させる条件・機能という事を、上述の概念が自らの内に含んでいく事に、重ねていくところにあると、私には思われる(左から右への線による線形時間を関数的空間において示す際の〈瞬間〉の表現という事も、ここでは私的には考えている)。

 以上の事の検討を、手始めにカントの『プロレゴメナ』第13節の、或る部分(鏡像の左右反転について書かれた)を、KrVの「弁証論付録」(以下「弁付」)での或る部分と関連付けて位置づけるところから始めてみよう。
次回の「『盲目』概念の視覚的意味」(2)は、改めてその事を中心的に取り上げるつもりである。