「ロゴスとピュシス」における親和性の位相について


 私は放送大学に提出した修士論文(以下、Aと表示)という概念において、「親和性(Affinität/Affinity)」への暫定的定義をした上で、カントにおける「親和性」の特徴について少し述べ立てたのであった。
 ところで、最近読んだ福岡伸一氏と池田善昭氏の共著『福岡伸一、西田哲学を読む-生命をめぐる思索の旅-』(明石書店、2017年・以下ではHNと表示)で有機体の個体性について提示されている或る表現が、私が上述の親和性の「特徴」で述べたことと共通する面があると共に、私がカントの批判期から晩年に至るまでの著作に感じていること、特に身体に関する辺りについては、すれ違う面もあるのだった。 
 又、今のところ余談ながら、私が以前から注目する多田富雄氏が自らの超システム論で述べられた、システム、ネットワーク、そしてプログラムそのものの崩壊と、福岡氏が自らの動的平衡論で物質とそのシステムの崩壊として述べられていることには、看過し得ぬ相違点があるとも思えるのだった。
 そうしたプログラムは、リニア(線形)時間を前提にした創作物であって、そうしたフレームを基礎とした上で、生命の動態を表出し得るかどうかという設問と共に。
 
 これら二つの相違点は、別々であるようでいて、実は繋がりがあるのではないか?私は今、そんな感触を持っている。それは上述のHNでも主題になっていたロゴス(論理)とピュシス(自然)の対立・対照に重なるとも思える。

 そして「親和性」の位相が、その対立の在り方によって変化するように思えるのだ。
 古代ギリシア、ローマ世界、中世キリスト教デカルトの機械論的自然像。これらそれぞれの自然観によって、何がどう「親和」するのかが変わってくるはずだ。
 人間にとっての神が親縁的で親和的とされることもあれば、広義の生命世界全体と人間が親和的とされることもあったはずである。更には、化学的親和力が科学的で精密に位置づけられるようになってから、そうした親和性と親和力の関係性も大切な問題だろう。
 そして、生命科学的に生命の個体性が定義されるようになってからの、生命世界と人間の親和性も、「個体」の定義の変更により、変貌するはずである。

 そうしたことについて、私はこれから少し模索してみたいのである。

 まず私が、上述の修士論文での(カント的文脈での)親和性についての記述を提示してみよう。

「・・・現時点で与えられる『親和性』への暫定的定義を与えておこう。親和性とは、悟性と感性を区別しつつも、その一致点を見いだすための根拠を示すものである。この或る種単純なことが、文脈を変えつつ、変容している。悟性と感性が『連続性』において或る種の段階を経てつながっているのではなく、区切りつつも接点を求める。お互いを区別しつつも、一致する根拠を示すものとしての<親和性>はある。」

 こう暫定的定義をした上で、私は親和性の形成が、以下の如く起きることを示唆した。

「 それは特に、外的感官を通して、与えられたものが内的感官を機能させるということにおいて、『外』から『内』へと向けられた視点と、『内』から『外』へと向けられた視点、こららが『分析論』と『弁証論』とそれぞれ(交互に)現れ、そのことが『親和性』の形成のダイナミズムそのものを生んでいることに通じている。『内に』含み、implikateしていくことと、それを展べ開く、explikateしていくことの交互の作用こそが、カントでの『親和性』を形づくるのである。」

 ところで上述のHNにおいて池田氏は「包みかつ包まれる」という表現を、細胞の外側と内側の間で起こっていることの表現として挙げておられ、又、ライプニッツの「モナドロジー」解説書でも提示しておられる。
 この包み包まれるは、私が正にカントがライプニッツモナド論を参考にしつつ書いたであろう、『純粋理性批判』の「理想論」の或る部分、即ち先月のこのブログで取り上げたそれにおいての親和性が、どう形成されるかを捉える為のimplicateとexplicateしていくことの交互作用と重なる部分があるのではないかと、私には思われるのだ。
 即ち、explikate、展開していくことと外部に包まれることが重なるのではないか?
 それは例えば、細胞が外側から包まれると共に外側の環境に展開することと言えるだろうか。
 しかし、こう書いてすぐに疑問が浮かぶ。「外部に包まれる」ことと、外へと「展開」していくことは、結構近いものがあると共に、果たして完全に同一であろうか?同時発生的であろうか?という疑問がである(又、上述の交互作用ということと、「かつ」ということにも、やはり相違点がある。ただ、そのような相違点があるにも関わらず、これらの一致点を認識することには意味があると私は考える。)。
 否、そうした「同一」についての疑問及び矛盾を克服する「自己同一性」への定義を模索することにこそ、ここでの課題はあるのではないか。
 即ち、細胞や生命個体の、内と外での「親和性」を考える上でも。
 ここで、上述の福岡氏、池田氏の紹介にも出した「個体性」についての現時点での暫定的定義を(「主体」への定義をも含めて)、それが極めて不十分であることを重々承知の上で、Aからの引用を振り返りつつ、与えておこう。

 個体とは、自己同一性を表出するための外的な記述及びそこでのロゴスによって、その性質が表されるものである。と同時に個体、及び主体とは、そうした自己同一性を表出しつつも、そこでの記述、ロゴスに留まらない自己規定をも、ピュシス(自然)における広義の外部との相関関係において表出する、あるいはされるもの、又はそうした中で他者であれ、外の「世界」であれ、何らかの「外」から何かを受け取り(把捉して)、又「同時」に「外」へと何かを発出すること、その過程で現れる相関関係の持続の(統一ある?)表象である。 
 さらにここでの「外的記述」とは、外的経験において外から与えられた事象を外へと記述すること、あるいはそのように記述されたものを言う。ここでの「外的経験」の形式は、カントの定義を借りれば「空間」である。又「身体」もそうした空間での外的な事象であり(例えば自分の心臓であろうと脳であろうとそれは外的な事象)、それを文字や数学的な記号、図形等の表現という外的な事象に表現可能なことばや記号、更にはロゴスにしていく、あるいはそうしたことばや記号、ロゴスによって記述すること、これが「外的記述」と言える。
 
 このような定義をした上で、急いで付け加えれば、ここで「自己同一性」をどう定義するかそのものが、それ自体として、検討に値することであり、この概念をただ突然何となく使用する、というのは早計であることを、私は十分に自覚している。
 自己同一性とは、個体性を有するものである、と言うと、循環論的な、トートロジーになってしまう。又、定義出来ないが、個体が自己同一性を持っていることを内含的に確認する現象を見いだすことを想定しても、では何が見いだせた時に、「確認」出来るのか。上述の個体の定義について、個体が自己同一性の現されるための外的記述により、その個体が自己同一性を表出するための外的記述によって性質が現される現象が確認出来た時、というのでは、単なる同語反復であり、<個体>の定義についての「真理」に到達し得たという根拠にはならない。

 それでは、どのような要件を、どのような位相、視点から満たし、規定(限定)した瞬間に、「個体性」の、あるいは「自己同一性」の定義に到達したと言い得るのであるか。
 言ってみれば、上述の難点がありつつも、カントは何とか「個体」(及び自己同一性)さらには「主体」についての定義をどこかに内含させていてもおかしくはない。その重要な手がかりが、カントがA版演繹論、「自分自身の汎通的同一性(Durchgangige identität)」について述べているところにある。そして正にそれと密接に関連する形で、カントは同演繹論において、「親和性」について論じているのである。

 ここで上述のHNで西田幾太郎がかつて紡いだテキストを元に提起されている「逆限定」という概念を取り上げてみよう。「逆限定」という概念は、今述べてきたトートロジー、循環論的議論が含み持つ矛盾を回避している可能性、あるいはそうした回避を行おうと意図しているとも思えるのだ。これまで私が述べた「規定」は、ドイツ語のbestimmungであり、「限定」とも言えるが故に。
 そして、「逆」ということが、逆向きの時間、因果性等とどう重なるかは、考慮から外せないからである。
 中島義道氏は『カントの自我論』(日本評論社、2004年・2007年に岩波書店岩波現代文庫に再収録された)で自らの自我論を論ずる中で、カントのテキストでの超越論的観念論は、現在から「過去」への向きの「想起モデル」において考えられているとことである。中島氏はそうしつつも、上述の西田の「無の場所」という概念を、「根源にさかのぼる運動が行き着く」「壮大なおとぎ話」の一つとして、否定的に捉えている。
 ここには、興味ある一致点と相違点が存在する。
 日常生活で普通に過去から未来に向けた時間とは、逆の時間が、「自我」や「自己」への規定において取り上げられる点、更には科学での線形(リニアな)時間(とその方向?)が設定される以前の、個体・主体の作用への考察を重んずる点では或る一致を示すが、「未来」の実在を前提とした上で、その未来から現在への時間の存在論的価値を認めるという点においては、中島氏は否定的であると私には思われる。
 なぜ、どのような学問的背景において、こうした相違は生じるのであろうか?そしてそこに、ピュシスとロゴスの相違と重複はどう反映するのか?
 
 ここで、今回取り上げたHNで、量子力学における観測問題をベースに、歴史は観測したときに初めて作られるのかについて論じられていたこと(P107)
を思い起こそう。
「木を切って年輪を見たときに初めて世界が作られている、というのが、年輪のほうから環境に対して作用をもたらしているということになるのではないかと思った」(福岡)
「ピュシスの中にもともとそういう逆限定があって、観測することによってそれが確かめられたというふうには理解できないでしょうか。」(池田)

 この、観測することで初めて作られる、制作されるということと、ピュシスの中に逆限定があって、観測においてそれが確かめられたということ。この中での時間・位相の考え方の差異が、上述の相違に影響している。
 (ロゴスによって?)制作することで初めて(過去から?)立ち現れる時間と、ピュシスにおいてもともと逆限定があり、それを観測で確かめると共に、そこに発見される時間の作用という対照においてである。

 これらの微妙な差異がHNでの時間観と中島氏のカント論での時間観の違いで効いているのではないか。

しかしいずれにしても、冒頭で取り上げた線形時間を前提にしたプログラム観に距離を置くことでは共通しているか。

 こうした諸観点からの「距離」を考慮に入れつつ、冒頭での、「プログラム」問題や、上述の「包みつつ包まれる」と「内含と展開」の差異の問題を、「親和性の位相」をめぐって(今回の始めの方に書いた、自然観の歴史での「親和性」の変貌への認識を踏まえて)考えることは、今後の重要課題である。