移行と有機的身体の変形

 先月の私のブログでの「親和性」(Affinität/Affinity)を、カントのどの文脈、テクストの相関を主軸として取り上げながら手探りするかの具体的表示とその理由を、今回は述べてみよう。
 ただ、今回はあくまで手探りの途中であり、読書メモ的になることをご容赦頂きたい(元より本ブログは、「研究日誌」、哲学ノートである)。
 さて、まず第一に注目するのは、『純粋理性批判』(以下KrV)の「理想論」の以下のパートである。急いで断らせて頂けば、このパートは嘗て放送大学の大学院に修士論文を提出した際にも中心的に取り上げたが、興味深い部分であり、その際には関連付けなかった、主に二つのパートとアンチノミー等との関連で、今回新たに取り上げたいのである。
 その際の考え方としては、古代ギリシアプラトンからユスティノス(先月も言及したトマス・アクイナスのキリスト教形而上学の先駆としての)へと至る中での「親縁性・類縁性/親和性」が、魂(心)と物(対象)の二世界論的世界に現れるさまを(主に柴田有氏の議論を参考にしつつ)一瞥した上で、先月も言及したエミール・ブレイエの『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社・2006年)(以下、初スト)で提起されている生物学的唯物論においてそうした「親和性」をとりあげた場合、それは(特にすべての諸「物体」とその相互浸透との関連において)どうとらえ直されるのだろう、という文脈を背後においた上で、その「関連」を考えてゆこうではないか、という内実を、私は想定している。
 カントのテクストにおいては、そうした古代からの形而上学的文脈での「親和性」と、19世紀以降の主に化学革命以降の化学的親和力へと通じる「親和性」がない交ぜになっている。私はその事を十全に確認したい。それも先月も述べた19世紀のダーウインの進化論での「生物」の扱いと、化学の進歩での「物」「物体」の扱いを、上述の「生物学的唯物論」を参照しつつ思考する中で。更にはストア派でのそうした唯物論の扱いを参考にしつつである。
 付け加えれば、19世紀以降の唯物弁証法とは異なる唯物論を、そうした親和性を追う中で明確にする算段を私は持っている。物質に還元され得ない、しかし物体ー身体の相互浸透(相互作用)における親和性に、私は光を当てたい。

 では、先に述べた十全なる確認をどう手がかりを得つつ行うか。これをマイケル・フリードマンの『Kant and the Exact Sciences(カントと精密科学)』(ハーバード大学出版局・1992年)の最終章他を参考に二つほど挙げてみよう。
①カント最晩年の遺構『オプス・ポストゥムム』において、生物科学(生命体)を理解する新たな試み「移行」プロジェクトがあり、そこで有機的身体・有機的存在と言った注目すべきconceptを、カントが提示していたこと。
②さらにはその遺構において、「熱素」が存在するという主張が、自然科学の形而上学的原理には属せず、物理学にも属せず、前者から後者への「移行」のみに属する、とフリードマンがしていること。
 これら①、②の内の①の有機的身体は、初ストで言及されているストア派の物体=身体と対照すべき点があると思われる。又、カントは宇宙を有機的身体としてるところがあると思われ、これも初ストの江川隆男氏による解説の「ストア派における宇宙は一つの身体である」(P150)に或る意味で類似した発想と思われる。
 更に②の(自然の)形而上学的原理にも物理学にも属さず、「移行」のみに属する、は、初ストの江川解説のP124で、「自然哲学」が、反形而上学的で反物理学的とされていることに重なり、又同初ストのブレイエの文のP34で、表現可能なものは、展開に従って獲得された概念の例として「場所」と共に挙げられていて、この展開とは、思考がある部分から別の部分へ「移行」することを含意しているという部分にも興味ある重なりを見せていると、私は思う。形而上学的思考から物理学的思考への「移行」という「時間」経過が存する「場所」そのものが、そこでの「身体」(①でも挙げた)のことと共に考えられている、そこが私にとって興味深い。思考を司る「言語」の身体性のことと共に。
 ここには、移行の場所性と有機的身体というモチーフがありそうである。

 さて、ここまで参考にしてきたフリードマン氏の『カントと精密科学』の序章は、ライプニッツ形而上学ニュートンの自然哲学(と物理学?)の論争の調停が取り上げられていたが、山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(筑摩書房・2008年)1巻でも、第6章「能動的作用因としての<エーテル>」でその論争は取り上げられ、ニュートンがクラークと共にどう主張したかが描出されているが、その一つの言明がニュートンの『プリンキピア』の《疑問28》の言葉として「非物体的で生命ある知性を持った遍在する存在者があり、それが無限空間において・・・・・諸事物自体を詳細に見透し、それらを隅々まで感知し・・・・・・完全に掌握している」であった。
 又、青木茂氏の『個体論の崩壊と形成』(創文社・1983年)によれば、ライプニッツが「活力」を扱った形而上学は、デカルト幾何学を扱った空間論とあわせて、カントが調停しようとしたものであり、その中でのライプニッツの動力学は、ストア的であるとの事である。 

 非物体的で、生命と知性があり、或る個体の唯一的な運命を掌握する。こうした存在の(広義の)「身体」、あるいは「有機的身体」が、上述の「言語」においてどう変形するのだろう。この「非物体的」は、ストア派でのそれと比較し、その比較をライプニッツ的動力学の位相の把握に適用すると、先に述べた元来の問いである「十全なる把握」はどう変容するのか? 

 それでは以上のような問いを起こしつつ、以下に上述で表明したが如く、カントKrVの「理想論」のB599〜B601で私が以前より注目する部分のテキストを以下の『』の中に引用・提示する。
なお、今回のブログでのカントKrVのの引用は、光文社の古典新訳文庫の中山元訳を底辺に置き、適宣、言葉を多少変えていくこととする。

『規定可能性の原則

おのおのの概念は 、その概念自身のうちに含まれていないものについては規定されていないのであり 、規定可能性という原則にしたがうことになる 。この規定可能性の原則とは 、矛盾対当の関係にあるあらゆる二つの述語について 、その一つだけがその概念に帰属しうるという原則である 。この原則は矛盾律にしたがうものであるから 、認識のすべての内容は無視して 、認識の論理的な形式だけに注目する純粋に論理的な原理である 。

〈汎通的規定性 〉の原則

ところでおのおのの事物はしかし、その可能性から考えるかぎりでは 、汎通的に規定される [ことができる ]という原則にしたがうものである 。この原則は 、それぞれの事物について示されうるすべての可能な述語について 、それと反対の述語と比較した上で 、 [その述語か 、それともそれと反対の述語かの ]どちらか一つがその事物に属することを求めるものである 。この原則はたんなる矛盾律にしたがうものではない 。というのは 、この原則は 、一つの事物をたがいに矛盾する二つの [矛盾対当の ]述語の関係において考察するだけではなく 、おのおのの事物を 、事物一般のすべての可能な述語の総体のうちで 、すなわち可能性の総体のうちで考察するからである 。そしてこの原理は 、これを [すべての事物について 、このような可能性の総体が存在することを ]アプリオリな条件として前提するのであるから 、それぞれの事物は 、それがそれぞれの全体の可能性において持つその〈持ち分 ・分け前〉のうちから 、みずからに固有の可能性を 、いわば取りだすとみなすのである (※注) 。
だから 〈汎通的規定性 〉というこの原理は 、たんに論理的な形式にかかわるのではなく 、その内容にかかわるのである 。この原理は 、ある事物の完全な概念を構成するために必要なすべての述語を総合する原則であり 、二つのたがいに対立する概念のうちのどちらかを決定するようなたんなる分析的な観念の原則ではない 。この原則にはある超越論的な前提が含まれている 。すなわち 、すべての可能性のための素材には 、それぞれのものの個別の可能性のためのアプリオリな所与が含まれているべきであるという前提が含まれているのである。

可能性の総体 (注 )

それ故、この原理を通じて、おのおのの事物は 、 [すべての事物に ]共通する相関者 、すなわち全体の可能性とかかわることになる 。この可能性の総体 、すなわちすべての可能な述語のための素材が 、唯一の事物(の理念のうち)に見出されるならば 、それはすべての可能なものの 〈親和性 〉を 、これらの 〈可能なもの 〉の 〈汎通的規定性 〉の根拠が同一であることによって証明するものとなる 。それぞれの概念の規定可能性 [の原則 ]は 、二つのたがいに対立する述語のあいだの 〈中間 〉を選ぶことはできないという排中律の普遍性にしたがうのだが 、それぞれの物の [汎通的]規定性 [の原則 ]は 、すべての可能な述語の総体に 、その総体性にしたがうのである 。』

 さて、ここで今挙げたテクストで、まず私が何に取りあえずは拘りたいかを、嘗て自分が書いた修士論文とかなり重複するが列挙してみよう。

 文中の「親和性が証明される」というフレーズがどういうことか、を解明する。「親和性」への上述の問題意識のもと。
 そして、それらのことを「親和性」の意味の定義と共に探りたい

 では手始めに、上記の※の注は、※印の直前の文章に現れる「おのおのの事物」と「事物それぞれの全体の可能性」との対比に対応していることから始めよう。「おのおのの事物」と「全体の可能性」との対比である。これら両者はどのような関係にあるのか。そしてこれらの内の後者が、jedesでなく、einzigenな事物の理念に見出されるとしたら、親和性が証明されてしまう、というカントの接続法第二式を用いた、どちらかと言えば否定的ニュアンスの書き方は何の意味があるのか。
 おのおのの事物といえば、その辺にある正に事物ということかとも思われるが、唯一の事物というと、それは例えば神のことを想定しているのか。「一つしかないもの」と「おのおのの事物」との差異はどこに存するか。
 おのおのの事物が、その全体の可能性において持つ、その分け前から、それ自身の可能性が見出されるという意味であるカントの言い方は、その辺にある様々な事物よりも、一つ抜け出たような位置を与えられている唯一の事物(それが「神」ということも考えられる)にという意味なのか。それとも既に述べたそれぞれの事物は、お互いに共存しながら、しかし一つ一つに可能性の総体が見出されるとしたら、という意味なのか。 
 
 なぜこのような疑問を持つかと言えば、この※の中の「共通の相関者(関連しあうもの)」はnämlich(いわば)全体の可能性と言っている点が解せないからである。もし単にそれぞれの事物があり、そこから一歩抜け出た唯一の事物が神として在るというならば、その唯一の事物、神が共通の相関者と言ってもおかしくないのに、なぜか可能性の総体が共通の相関者だとカントは述べる。
 「相互に関連しあうもの」の中に共通のものが埋め込まれて形成されるのに、そうでなく、つまりそのような相互性から一歩上に出た唯一の事物の中に「可能性」の総体が見出される時、「親和性」が証明されてしまうということなのか。しかしこれは"親和性"という言葉への解釈にもよろうが、相互に関連し合って(共存している)いるものの中に「親和的」な関係が成立しているというなら解りやすいが、それとは違う可能性として書かれているように見える。"唯一の事物の理念"に可能性の総体が見出される時、"親和性"が証明されるとはどういうことなのか。

 ただそれだけのものが相互に関連し合っている、即ち、「すべての可能性」としてあるだけでは、親和性は証明され得ないというわけなのか。それとも成立はしているが、証明はされえないということなのか。

 それではここで私がまず考えたい問題の一部を、取りあえずは二つにまとめてみよう。

①「唯一の事物」と「おのおのの事物」の「差異」はカントにとってどのようなものか。
②そうした「差異」を設けつつも、「可能性の総体」が唯一の事物に「見出される」時とは、どういう「時」あるいは「瞬間」なのか。

 ここで言及した「唯一の事物に見出される」時、「瞬間」について考えるのに、私はまず、KrVのB48付近と同B232付近の「唯一の時間」という概念を参照したい。いわば、それらパートでの「唯一の時間」の、時間のフレームでの「唯一性」が、唯一の事物に見出される「時」「時間」にどう響いているのかを探る為に。
 そうした上で、「現在只今」は存在し得るのか、それとも不在とされるべきかを考えつつ、いわゆるKrVの第一アンチノミーでの「空虚」を、どこまで「物体」の「不在」として(先月更新のブログを受けて)思考することが可能か、を探りたい。
 更にそうした中で、個物の唯一性は、そうした不在を前提とした中での現象なのかを抽出し、ここでの「物体/身体(有機的身体を含む)」がどう変形され得るかを抽出する。

かくして先月よりも更に、本ブログにおける研究の方針が具体的となった。