「『Affinität/Affinity(親和性・類縁性)』と物体の『不在(欠如)』としての『空虚』」をめぐって


    今回は、まだ未提示であったにも関わらず、私の免疫系研究にとって長年の重要なキーワード「Affinität/Affinity」を取り上げます。そうした中で、先月30日にこのブログに載せた「修士論文提示への前口上」で予告した、より具体的な研究方針の表示を行いたいのです。
 
   このキーワードは、明治学院大学大学院に修士論文を提出した後に、カントと免疫系を並行して研究する内に、重要なキーワードとして私の前にせり上がってきたのです。
   7年程前に放送大学大学院に、明学よりもカントプロパーに絞って提出したもう一つの修士論文のタイトルは『「親和性が証明される」とはどういうことか』というものでした。免疫系について研究する内に自分の中に身ごもってきた問題意識を、カントにおける「親和性」というキーワードで考え進めてみようではないか、という意図のもと、書いたのです。この「親和性」という言葉の英語での言葉こそ上述の「Affinity」です(カントの書くテクストのドイツ語ではAffinität)。今回、単なる親和性ということだけでない広がりを持たせようとしているので、あえて「Affinity」としました。具体的に書けば、私が前回のブログで書いたダーウインが発見したことについて、ダニエル・デネットが自らの単著『ダーウインの危険な思想』(青土社・2000年)で論じたこととの関連でそうしたのです。即ち、ダーウインの『種の起源』の第13章で「生物相互の類縁性」が論じられるところで「類縁性」を「Affinity」としていることといずれ関連付ける可能性の為です。
   ところで、私の放大提出論文執筆では、カントの『純粋理性批判』(以下KrVと表示する)の「純粋理性の理想」という章の或る部分の注の「親和性」を中心に取り上げました。この部分の「親和性」について集中的に取り上げる研究というのは、多分あまりないものと思われます。しかし、KrVで特に「個体性」ということについての大切なパートでの「親和性」だからこそ、免疫系を素材にして、生命の「個体性」がなぜ生じるかを考えようとしている私としては、その部分を中心に取り上げる必要を感じたのでした。
   ただ、その執筆の際に「超越論的論理学」というKrVの中の章の「論理学一般について」という節の中の、後でも論ずるワンフレーズ「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)を、「指示」と「個体」をめぐって参考にした上で、「盲目的偶然性」のことは、カント的な「空間」を取り上げる中で、不十分ながら論じられたものの、このフレーズのもう一つのキーワードである「空虚」について、私はほとんど論ずることはなかったのでした。
   だからこそ、今回、この「空虚」というキーワードについて、「物体の『不在(欠如)』」という見地から、かなり丁寧に分析し論じてみようではないか、と私は意図しているのです。
   それは4月30日にこのブログに提示した明学の「修論」提示の為の前口上で、免疫系の中心の「不在」について論じたことを受け、「空虚」を「物体の不在(欠如)」として論じたとする、初期ストア派についての、エミール・ブレイエの意見(『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』{エミール・ブレイエ月曜社・2006年}を参照しました)を参考に、カントのKrVのアンチノミーにおいての「空虚」が、そうした「物体の不在(欠如)」を、カントがいかに批判的に受け止める中で形成されたものであるかを、集中的に読み込んでいくことは、それなりに有意義なのではないか、と私は考えるのです。しかも、そのことを同じくKrVのA版の演繹論での「物体」と、先述の「理想論」の親和性を取り結ぶ「結節点」として論ずる。
   私は、放大の修士論文において、A版演繹論での「親和性」概念を、「物体」とそれへの視点の無限の位置の可能性について関わらせる中で論じ、そこで「盲目」というキーワードを出してきたのですが、今回はその中での「物体」を、上述の如く「空虚」との関連を詳細に考慮しつつ論じて直してみたいのです。そしてそこに、フレーズ全体は既に先に挙げ、後述もする「内容なき思考は空虚」とするカントの考え方を関連付けたい。
   ここで「物体」、英語ならBody、ドイツ語ならケルパーというのは、いわゆるその辺に転がっている物体という意味から、人間を含めた生命体の「身体」というような意味、更には宇宙空間全体、という時の「空間」を「身体」と表現する際に、それらを「物体」、ケルパーというように形容することを内含しています。カントの『遺稿』は『オプス・ポストゥムム』と呼ばれているのですが、その中で、有機的身体、ドイツ語でオーガニシェン・ケルパーというキータームが出て来て、それはいわゆる地上の生き物に備わる「身体」という意味だけではなくて、宇宙の空間(全体)という意味をも含んでいます。こうした三重の意味での「身体」(物体)での、中心として機能する「物体」の「不在(欠如)」ということを、私は今回このブログで拘って考えたいのです。
   それは、免疫系が脊椎動物の身体において、宇宙空間全体のどこからのモノ、物体が異物として襲って来ても、ちゃんと対応する、という「コト」、「出来事」を背後に考えています。
   ここで私の問題意識を言い換えて、まとめれば、中心が不在なのに、或る種の物体の相互関係において「親和性」が生じる、その空間性はどのようなものか?となるかもしれません。
   あるいは、事典『哲学の木』(講談社・2002年)の「観測」という項目において「観測は任意の物体が他の物体からの影響を受ける運動において実現する」(松野孝一郎氏による)という記述がありますが、免疫系が中心的に指令する物体がないのに作動する「出来事」を観測する、そうしたことが前提になっていると言っても良いのです。(注1へ)
   そして、先述のように「アンチノミー」、「理想論」へと、そうしたKrVのA版演繹の「物体」(とその触発)とそこからの広がりを関連付けていく。  今回開始したブログは、まずもってこの流れで議論を前進するものであるべきと、私は判断しました。
 
   さて、ここまで述べてきた問題意識を、もう少し歴史的に位置付ければ、カントの主に生きていた18世紀から19世紀における或る側面におけるAffinity(Affinität)、親和性を考慮に入れることも予定しております。
 
   一つは化学(史)的意義において。
   もう一つは既述のように進化論的見地において。
 
   親和性は化学的概念として登場する側面がカントにおいてはある。例えば『自然科学の形而上学的原理』にそのことは如実に現れている。カントにおける親和性概念について考察する際には、カントの生きていた当時の状況におけるこの概念と共に、旧来からの形而上学及びそれへの批判を視野に収める必要がある。それは物理学、化学を含めた当時の科学に依拠しつつ、形而上学を批判的に検討していったカントの姿勢を視ることであると言っても良い。
   そして更にカントの死後の19世紀の科学の内実での化学的親和力、親和性を、そうしたカント存命中の(主に18世紀の)科学の化学的親和性概念と共に考察する必要がある。
 
   一方で、カントが亡くなった後の19世紀に成立したダーウインの進化論の前史として、類とか種の間の「親和性」を論じていたカントのことをも考慮せねばなりません。「種の起源」第13章においては、生物相互の「Affinity」が「相互の類縁性」として論じられている訳ですが、それに通じる論議の枠組みが、例えばKrVの弁証論付録において、あるいは判断力批判(以下、KdU)の第一序論にあると思われ、このこともいずれ確実に自らの議論に入れるつもりです。(注2へ)
 
   そして、こうした19世紀の二つの事象を十分に考慮に入れつつ、20世紀末から現在にかけての、免疫系の研究における「Affinity」(親和性)において、生化学的に免疫系の有様を、例えば抗体の進化をも考える、という視座の確立を成し遂げたいのです。
 
   ところで、こうした視座の確立において、やはり必要なのは、「時間」への私の認識機構の関わりを、カントのテクストにおいて如何に抽出するかであります。
   実は私はこの抽出に、先の(本ブログでの4月30日提示の)「前口上」において予告した、anzeigen/angebenというタームのカントのテクストにおける使い分けに注目して分析するアプローチを使用したいのです。そのことをここから仮説的かつ予告的に少し説明しましょう。本当にその分析を正しいとして実行するかは別にしてであります。
 
   してみれば、カントはKrVの「超越論的論理学」章の「論理学一般について」において「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)としていますが、そうしたカントにおいて、対象認識は、或る表象を「指示」する受動性と、更にその上で「表示」する能動性という二つの要素から構成されると言えるかもしれない、と私は或る知人から興味ある示唆をされた事があります。
 
   ところでそうした示唆を参考にしつつ、私が見定めようとしたところによれば、anzeigen(以下ANZ)とangeben(以下ANG)は、そうした「指示」、「表示」ということと、イコールでないまでも、対応したものがあると考えられるのです。そしてこの二語の使われ方が交錯するところに「親和性」が立ち現れると、私は仮説を立てているのです。
   即ち素材としての諸現象は、内なる理念や外の或る物、あるいは物自体と言っていいモノ、コトを「暗示する」というところにANZは使われ、その暗示を通じてその物自体を「指示」するというような概念構成となっている。
   例えば、「現象という語は既にあるものとのANZ(暗示)している」(KrV・A252)というような一節がKrVのA版の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という章にはある。又、「判断力批判」(以下KdUと表示)では「悟性は、自己のアプリオリな法則が自然に対して可能であることによって、自然が我々にはただ現象として認識されるということを証明し、従って、同時に自然の超感性的基体をANZ(暗示)し」とある。同じくKdUで、物自体は超感性的なものであろう(ⅩⅠⅩ)とカントは述べていますが、言わば現象が物自体を暗示するというわけです。
   そしてそうした中で、「光」を通じて或る対象が「視覚」に示される、しかも恐らくは直接的に、非推論的に或る形、形相が「示される」というところにANZが使われています。他方、或る超越論的理念が、虚焦点として、岩波文庫訳の但し書きを使えば、「光」がそこから発出するかに見える、鏡像の想像的焦点として「示される」というところにも、ANZは使われています。
   あるいは第三類推の実体間の「相互性」について述べられたところでは、カントは「我々の眼と諸天体との間にゆらめく光が、我々と諸天体との間の間接的相互作用を生ぜしめ、これによって天体と我々との同時的存在を証明する」として、「視覚」と対象そのものの相互性が、光を介して生じるという文脈があります。
   一方でANGは、経験の可能性、及びその条件、さらにはそれらが成立する根拠が「示される」というところ、もう一つはその可能性、条件に従って、あるいはそれらに従った上でのカテゴリーによって、感性に「与えられた」現象をフェノメナとして明文化し、「示す」というところで使われており、言わば、上述の「表示」ということに関わる、一連のプロセスを「示す」という所に使われていると思われる。与える(geben)ことをされつつ、なおかつ示す(という能動性を持つ)という使われ方であります。
   そしてそうしたプロセスにおける受動と能動との、あるいは感性と悟性との「比例」(ratio)ということは、ratioのもう一つの意味である「理性」ということに重なります(又それが量的認識である時は、「比量的」ということにも重なります)。
   さらに一方で、ANZは直接、人間の「視覚」に「形像」として、点や線や円が示されるというところにも使われている。線を引き、その中で対象をとらえ、受動ー能動のプロセスが機能するという所にANGが使われるとともに、そうした際の線形「時間」とか、その背後に前提とされる空間性が「示される」というところにもANZは使われている。言わば「視覚」に光を介して、或る対象のものとしての概念が結合されること、その方法が示される、ということになるのです。
   そこでは人間は、そうした「形像」に非推論的に関わっていき、知性が形相化される、しかしそうしたプロセスにおける受動/能動の「比例」に「理性」が関わり、機能する(形相を非推論的に受け止めつつ、受け止めた上での知性の形相化、形式化そのものの運動に、「親和性」が立ち現れるということには、中世のトマス・アクィナス以来の親和性理論と、そこでのスペキエスの伝統が残留している可能性があるかもしれません。)。
   こうしたプロセスの一つに、「時間」という対象そのものが、人間が線形時間を「書く」という行為において現れるということがあり、「点」という「形像(Bild)」の二つの間に一本の線が引かれ、現在という或る一「点」を定め(点時刻の設定)、そしてそれを(「光」に照らされたそれを)書いた本人が「視覚」において「視る」、さらにその視覚によって受容したものを明文化する、その中で過去を定めるというプロセスにおいて「時間」そのものが対象として立ち現れてくる。その中で、過ぎ去った過去の意味も初めて生成されてくるのです。
 
   こうした形像と視覚の「時間」的関係性を、冒頭の方に書いた物体と、その不在としての空虚という空間概念にどう関連付けていくか。今後、そうしたことを、上述のKrVのA版演繹論での「物体」とアンチノミーでの「空虚」、更には「理想論」での「Affinität/Affinity(親和性)」との関連において探求するというのが、目下今のところの私の具体的な研究方針なのです。
   カントでのと物体の「不在」としての空虚が、ここに解明されていくはずです。
   それでは、来月(6月)末日には、その解明の一歩を踏み出すことにしましょう。
 
   (注1)
   比較的最近の松野孝一郎氏が生命を論ずることを、親和性や親和力に着目する形で行っているのを、私は2017年4月29日に初めて知りました。しかしこの私のブログの読者が、もしそうした松野氏のそうした傾向を知っておられて、しかも「観測」について私が松野氏の文章を引用しているのをご覧になると、私の親和性についての議論そのもの、あるいは今回の研究全体が、松野氏の影響のもとに行われようとしているかのように思うかもしれませんが、それは誤解です。
   私が親和性について、免疫学を素材とした自己区別の研究をする中で追求しだした1998年位から、そうした「親和性」については、拘って探求を開始し、論文にしてまとめたのが2010年です。
   松野氏がいつから「親和性」に拘り出したかを私は知りませんが、そのことを私が知ったのは兎にも角にも一昨日なのです。
 
   (注2)
   KrVの「弁証論付録」で、形相間の「空虚」と「親和性」の関係に言及した重要な箇所も、上述の研究の進展、特にダーウインの著作や生物の類と種との関連に大事なのですが、私は今回はそれには言及しません。
    しかし、そう遠くない将来に、私はその言及を行う予定です。