「『Affinität/Affinity(親和性・類縁性)』と物体の『不在(欠如)』としての『空虚』」をめぐって


    今回は、まだ未提示であったにも関わらず、私の免疫系研究にとって長年の重要なキーワード「Affinität/Affinity」を取り上げます。そうした中で、先月30日にこのブログに載せた「修士論文提示への前口上」で予告した、より具体的な研究方針の表示を行いたいのです。
 
   このキーワードは、明治学院大学大学院に修士論文を提出した後に、カントと免疫系を並行して研究する内に、重要なキーワードとして私の前にせり上がってきたのです。
   7年程前に放送大学大学院に、明学よりもカントプロパーに絞って提出したもう一つの修士論文のタイトルは『「親和性が証明される」とはどういうことか』というものでした。免疫系について研究する内に自分の中に身ごもってきた問題意識を、カントにおける「親和性」というキーワードで考え進めてみようではないか、という意図のもと、書いたのです。この「親和性」という言葉の英語での言葉こそ上述の「Affinity」です(カントの書くテクストのドイツ語ではAffinität)。今回、単なる親和性ということだけでない広がりを持たせようとしているので、あえて「Affinity」としました。具体的に書けば、私が前回のブログで書いたダーウインが発見したことについて、ダニエル・デネットが自らの単著『ダーウインの危険な思想』(青土社・2000年)で論じたこととの関連でそうしたのです。即ち、ダーウインの『種の起源』の第13章で「生物相互の類縁性」が論じられるところで「類縁性」を「Affinity」としていることといずれ関連付ける可能性の為です。
   ところで、私の放大提出論文執筆では、カントの『純粋理性批判』(以下KrVと表示する)の「純粋理性の理想」という章の或る部分の注の「親和性」を中心に取り上げました。この部分の「親和性」について集中的に取り上げる研究というのは、多分あまりないものと思われます。しかし、KrVで特に「個体性」ということについての大切なパートでの「親和性」だからこそ、免疫系を素材にして、生命の「個体性」がなぜ生じるかを考えようとしている私としては、その部分を中心に取り上げる必要を感じたのでした。
   ただ、その執筆の際に「超越論的論理学」というKrVの中の章の「論理学一般について」という節の中の、後でも論ずるワンフレーズ「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)を、「指示」と「個体」をめぐって参考にした上で、「盲目的偶然性」のことは、カント的な「空間」を取り上げる中で、不十分ながら論じられたものの、このフレーズのもう一つのキーワードである「空虚」について、私はほとんど論ずることはなかったのでした。
   だからこそ、今回、この「空虚」というキーワードについて、「物体の『不在(欠如)』」という見地から、かなり丁寧に分析し論じてみようではないか、と私は意図しているのです。
   それは4月30日にこのブログに提示した明学の「修論」提示の為の前口上で、免疫系の中心の「不在」について論じたことを受け、「空虚」を「物体の不在(欠如)」として論じたとする、初期ストア派についての、エミール・ブレイエの意見(『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』{エミール・ブレイエ月曜社・2006年}を参照しました)を参考に、カントのKrVのアンチノミーにおいての「空虚」が、そうした「物体の不在(欠如)」を、カントがいかに批判的に受け止める中で形成されたものであるかを、集中的に読み込んでいくことは、それなりに有意義なのではないか、と私は考えるのです。しかも、そのことを同じくKrVのA版の演繹論での「物体」と、先述の「理想論」の親和性を取り結ぶ「結節点」として論ずる。
   私は、放大の修士論文において、A版演繹論での「親和性」概念を、「物体」とそれへの視点の無限の位置の可能性について関わらせる中で論じ、そこで「盲目」というキーワードを出してきたのですが、今回はその中での「物体」を、上述の如く「空虚」との関連を詳細に考慮しつつ論じて直してみたいのです。そしてそこに、フレーズ全体は既に先に挙げ、後述もする「内容なき思考は空虚」とするカントの考え方を関連付けたい。
   ここで「物体」、英語ならBody、ドイツ語ならケルパーというのは、いわゆるその辺に転がっている物体という意味から、人間を含めた生命体の「身体」というような意味、更には宇宙空間全体、という時の「空間」を「身体」と表現する際に、それらを「物体」、ケルパーというように形容することを内含しています。カントの『遺稿』は『オプス・ポストゥムム』と呼ばれているのですが、その中で、有機的身体、ドイツ語でオーガニシェン・ケルパーというキータームが出て来て、それはいわゆる地上の生き物に備わる「身体」という意味だけではなくて、宇宙の空間(全体)という意味をも含んでいます。こうした三重の意味での「身体」(物体)での、中心として機能する「物体」の「不在(欠如)」ということを、私は今回このブログで拘って考えたいのです。
   それは、免疫系が脊椎動物の身体において、宇宙空間全体のどこからのモノ、物体が異物として襲って来ても、ちゃんと対応する、という「コト」、「出来事」を背後に考えています。
   ここで私の問題意識を言い換えて、まとめれば、中心が不在なのに、或る種の物体の相互関係において「親和性」が生じる、その空間性はどのようなものか?となるかもしれません。
   あるいは、事典『哲学の木』(講談社・2002年)の「観測」という項目において「観測は任意の物体が他の物体からの影響を受ける運動において実現する」(松野孝一郎氏による)という記述がありますが、免疫系が中心的に指令する物体がないのに作動する「出来事」を観測する、そうしたことが前提になっていると言っても良いのです。(注1へ)
   そして、先述のように「アンチノミー」、「理想論」へと、そうしたKrVのA版演繹の「物体」(とその触発)とそこからの広がりを関連付けていく。  今回開始したブログは、まずもってこの流れで議論を前進するものであるべきと、私は判断しました。
 
   さて、ここまで述べてきた問題意識を、もう少し歴史的に位置付ければ、カントの主に生きていた18世紀から19世紀における或る側面におけるAffinity(Affinität)、親和性を考慮に入れることも予定しております。
 
   一つは化学(史)的意義において。
   もう一つは既述のように進化論的見地において。
 
   親和性は化学的概念として登場する側面がカントにおいてはある。例えば『自然科学の形而上学的原理』にそのことは如実に現れている。カントにおける親和性概念について考察する際には、カントの生きていた当時の状況におけるこの概念と共に、旧来からの形而上学及びそれへの批判を視野に収める必要がある。それは物理学、化学を含めた当時の科学に依拠しつつ、形而上学を批判的に検討していったカントの姿勢を視ることであると言っても良い。
   そして更にカントの死後の19世紀の科学の内実での化学的親和力、親和性を、そうしたカント存命中の(主に18世紀の)科学の化学的親和性概念と共に考察する必要がある。
 
   一方で、カントが亡くなった後の19世紀に成立したダーウインの進化論の前史として、類とか種の間の「親和性」を論じていたカントのことをも考慮せねばなりません。「種の起源」第13章においては、生物相互の「Affinity」が「相互の類縁性」として論じられている訳ですが、それに通じる論議の枠組みが、例えばKrVの弁証論付録において、あるいは判断力批判(以下、KdU)の第一序論にあると思われ、このこともいずれ確実に自らの議論に入れるつもりです。(注2へ)
 
   そして、こうした19世紀の二つの事象を十分に考慮に入れつつ、20世紀末から現在にかけての、免疫系の研究における「Affinity」(親和性)において、生化学的に免疫系の有様を、例えば抗体の進化をも考える、という視座の確立を成し遂げたいのです。
 
   ところで、こうした視座の確立において、やはり必要なのは、「時間」への私の認識機構の関わりを、カントのテクストにおいて如何に抽出するかであります。
   実は私はこの抽出に、先の(本ブログでの4月30日提示の)「前口上」において予告した、anzeigen/angebenというタームのカントのテクストにおける使い分けに注目して分析するアプローチを使用したいのです。そのことをここから仮説的かつ予告的に少し説明しましょう。本当にその分析を正しいとして実行するかは別にしてであります。
 
   してみれば、カントはKrVの「超越論的論理学」章の「論理学一般について」において「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)としていますが、そうしたカントにおいて、対象認識は、或る表象を「指示」する受動性と、更にその上で「表示」する能動性という二つの要素から構成されると言えるかもしれない、と私は或る知人から興味ある示唆をされた事があります。
 
   ところでそうした示唆を参考にしつつ、私が見定めようとしたところによれば、anzeigen(以下ANZ)とangeben(以下ANG)は、そうした「指示」、「表示」ということと、イコールでないまでも、対応したものがあると考えられるのです。そしてこの二語の使われ方が交錯するところに「親和性」が立ち現れると、私は仮説を立てているのです。
   即ち素材としての諸現象は、内なる理念や外の或る物、あるいは物自体と言っていいモノ、コトを「暗示する」というところにANZは使われ、その暗示を通じてその物自体を「指示」するというような概念構成となっている。
   例えば、「現象という語は既にあるものとのANZ(暗示)している」(KrV・A252)というような一節がKrVのA版の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という章にはある。又、「判断力批判」(以下KdUと表示)では「悟性は、自己のアプリオリな法則が自然に対して可能であることによって、自然が我々にはただ現象として認識されるということを証明し、従って、同時に自然の超感性的基体をANZ(暗示)し」とある。同じくKdUで、物自体は超感性的なものであろう(ⅩⅠⅩ)とカントは述べていますが、言わば現象が物自体を暗示するというわけです。
   そしてそうした中で、「光」を通じて或る対象が「視覚」に示される、しかも恐らくは直接的に、非推論的に或る形、形相が「示される」というところにANZが使われています。他方、或る超越論的理念が、虚焦点として、岩波文庫訳の但し書きを使えば、「光」がそこから発出するかに見える、鏡像の想像的焦点として「示される」というところにも、ANZは使われています。
   あるいは第三類推の実体間の「相互性」について述べられたところでは、カントは「我々の眼と諸天体との間にゆらめく光が、我々と諸天体との間の間接的相互作用を生ぜしめ、これによって天体と我々との同時的存在を証明する」として、「視覚」と対象そのものの相互性が、光を介して生じるという文脈があります。
   一方でANGは、経験の可能性、及びその条件、さらにはそれらが成立する根拠が「示される」というところ、もう一つはその可能性、条件に従って、あるいはそれらに従った上でのカテゴリーによって、感性に「与えられた」現象をフェノメナとして明文化し、「示す」というところで使われており、言わば、上述の「表示」ということに関わる、一連のプロセスを「示す」という所に使われていると思われる。与える(geben)ことをされつつ、なおかつ示す(という能動性を持つ)という使われ方であります。
   そしてそうしたプロセスにおける受動と能動との、あるいは感性と悟性との「比例」(ratio)ということは、ratioのもう一つの意味である「理性」ということに重なります(又それが量的認識である時は、「比量的」ということにも重なります)。
   さらに一方で、ANZは直接、人間の「視覚」に「形像」として、点や線や円が示されるというところにも使われている。線を引き、その中で対象をとらえ、受動ー能動のプロセスが機能するという所にANGが使われるとともに、そうした際の線形「時間」とか、その背後に前提とされる空間性が「示される」というところにもANZは使われている。言わば「視覚」に光を介して、或る対象のものとしての概念が結合されること、その方法が示される、ということになるのです。
   そこでは人間は、そうした「形像」に非推論的に関わっていき、知性が形相化される、しかしそうしたプロセスにおける受動/能動の「比例」に「理性」が関わり、機能する(形相を非推論的に受け止めつつ、受け止めた上での知性の形相化、形式化そのものの運動に、「親和性」が立ち現れるということには、中世のトマス・アクィナス以来の親和性理論と、そこでのスペキエスの伝統が残留している可能性があるかもしれません。)。
   こうしたプロセスの一つに、「時間」という対象そのものが、人間が線形時間を「書く」という行為において現れるということがあり、「点」という「形像(Bild)」の二つの間に一本の線が引かれ、現在という或る一「点」を定め(点時刻の設定)、そしてそれを(「光」に照らされたそれを)書いた本人が「視覚」において「視る」、さらにその視覚によって受容したものを明文化する、その中で過去を定めるというプロセスにおいて「時間」そのものが対象として立ち現れてくる。その中で、過ぎ去った過去の意味も初めて生成されてくるのです。
 
   こうした形像と視覚の「時間」的関係性を、冒頭の方に書いた物体と、その不在としての空虚という空間概念にどう関連付けていくか。今後、そうしたことを、上述のKrVのA版演繹論での「物体」とアンチノミーでの「空虚」、更には「理想論」での「Affinität/Affinity(親和性)」との関連において探求するというのが、目下今のところの私の具体的な研究方針なのです。
   カントでのと物体の「不在」としての空虚が、ここに解明されていくはずです。
   それでは、来月(6月)末日には、その解明の一歩を踏み出すことにしましょう。
 
   (注1)
   比較的最近の松野孝一郎氏が生命を論ずることを、親和性や親和力に着目する形で行っているのを、私は2017年4月29日に初めて知りました。しかしこの私のブログの読者が、もしそうした松野氏のそうした傾向を知っておられて、しかも「観測」について私が松野氏の文章を引用しているのをご覧になると、私の親和性についての議論そのもの、あるいは今回の研究全体が、松野氏の影響のもとに行われようとしているかのように思うかもしれませんが、それは誤解です。
   私が親和性について、免疫学を素材とした自己区別の研究をする中で追求しだした1998年位から、そうした「親和性」については、拘って探求を開始し、論文にしてまとめたのが2010年です。
   松野氏がいつから「親和性」に拘り出したかを私は知りませんが、そのことを私が知ったのは兎にも角にも一昨日なのです。
 
   (注2)
   KrVの「弁証論付録」で、形相間の「空虚」と「親和性」の関係に言及した重要な箇所も、上述の研究の進展、特にダーウインの著作や生物の類と種との関連に大事なのですが、私は今回はそれには言及しません。
    しかし、そう遠くない将来に、私はその言及を行う予定です。

修士論文「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(要旨) [PDF/2.4MB]

 

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(本文) [PDF/24.5MB]

 

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(訂正表) [PDF/631KB]

 

「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」をテーマのブログ開始のためにー私の修論掲載への前口上ー


   これからこのブログを始めるにあたり、自己紹介を兼ねて、本ブログにあともう少しで掲載することとなる極めて拙い修士論文(以下、修論と表示)を、私がどういう背後があって書き、このブログでその論文を出発点としつつ、これから主にどういった課題を、どういう方向性で考察していくか、その考察の拙さをどう改訂していくかを、まず今回は表出しておきたいと思います。
    殊に、免疫系での自然的記号の作用が、どう人間の志向的記号と異なるのか、あるいは異なりつつも重なるのか(修論22ページ8行目からの「免疫系が自己言及しながらある規則を」で始まる段落と同51ページ3行目からの「ここで先に書いたこと」で始まる2つの段落と、両者の文脈の相関関係を参照)。その差異を差異そのものとして存立する方法として、カントによるデカルトのコギトの再定式化を当てはめたあたりが、私の修論では、挑戦しようとして、不完全燃焼で終わったところかと思われます。

 そのことを、アルゴリズムを或る種のシンタックスとして、それの多様な群としての個体性と、その意味の造成の問題として今回考え直したらどうなるのか?
    更にはそうした造成において、無限な外敵への対応への無限な視点を成立させる位相と論理はいかなるものか。
     この辺りを、やはりカントと共に考えていきたいのです。

 それでは、その始動を以下で拙いながら始めてみましょう。 

    私の元々のテーマは「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」であるのですが、そこに、自己中心性と自己超越がどう要されるかのインスピレーションを、更にはそれらの為の「時間」の枠組みの素材やヒントを多田富雄氏は与えてくれました。
 即ち多田氏の免疫系への観点は、無秩序から秩序が、個別性から社会性が、偶然性から目的が、無意識から意識が、非個体性から個体性が(生命体において)生じるといったこれらのペアの概念を、対立する二項対立とそれを調停する神の超越的視点・機能において捉えるのではなしに、そうした視点・機能の「不在」において、自己超越を孕んだ或る種の「時間(差)」を捉える形式・感官において捉え、その上でどう生じるかの技法を捉え出す端緒を、具体的な免疫現象において提示してくれたのです。言わば、極めて自己中心的であることが、そのまま、どこにも中心がない、中心が「不在」であることに通じるシステムを、アルゴリズム(後述)の群として造成する有り様をです。
     例えば、多田氏は、
「超システムは、内部のルールを自分で作り出しながら拡大してゆくのだから、当然目的はなくなる。それは自己目的化した、自己中心的システムとなる。」(『ビオス』1号』{哲学書房・1995年}の3ページより)とし、上述の「自己中心」という言葉を使っておられる。 
     しかも、これらのペアでの諸プロセスが、生命体での水平的で同時並行的に相互作用しつつ、遂行されることと、おそらくは多田氏の中では、位置付けられている。
    更には免疫系の自己区別の解明に際しての、物質的に還元する解明、説明をする事を行いつつ、(そうした還元ではくみつくせない)システムとしての全体性を解明する、という中での、還元する行為と全体性を捉える行為の違いを明確に認識しつつ、その違い、差異においてその行為の時間差と上述の「自己超越」を捉えるとば口を、多田氏は残して下さった。「無限」(後でこの概念については少し詳述させて頂きます。)の外敵(細菌等の)の可能性と、それへの対処をする有限の物質の集合のシステムへの認識において。
     自然淘汰、自己組織化といった現象が、偶然か目的に沿ったものかという二者択一ではなく、前者から後者へと生じるという枠組みにおいて考えるヒントをも。
 そしてその遺産は、ニールス・イエルネのネットワーク説を批判的に継承する中で成立していると、私には思えます。
 即ち、反応するかしないかという「意志決定」をする上部機関をシステムの中に持たない(即ち、そうした機関が「不在」である)免疫系のネットワークが、「なぜ反応の大きさ、方向性、時間、質などが決定されるか」という問題にイエルネはうまく答えられなかった、という事を多田氏は『免疫の意味論』の第三章「免疫の認識論」の70ページで書いておられますが、予定調和的な完結したシステムの説明としてのネットワーク説において、「時間」そのもの(それは線型時間そのものの「存立」と「選択」をも含む問いかもしれません)の在り方が、なぜ決定され、制作されるのか。そうした時間そのものの決定・成立への問いがここで起こされ、それを踏まえて、自己超越の形式が捉えられている(もしくは捉えられることが模索されている)。
      言わばイエルネのネットワーク説以降の物質還元主義的な免疫系への解明を十二分に踏まえつつも、更にそこで見出された物質の機械的な作用の生成やアルゴリズムを、十全に踏まえつつ超える、つまりは「超越」する(個体レヴェルの自己超越の)原理を見出すことは、むしろこれからの我々に任されている。
    それも線型時間と、関数空間でのその身体性を包括した、多様なアルゴリズムの可能性からの「選択」をも十分考慮に入れつつ、そうした「超越」を考える必要がある。
    ここで注目すべきこととして、ウンベルト・エーコ氏が、1986年に多田氏と共に行ったワークショップで「一番簡単なシンタックスの形態は、アルゴリズムです。」(田中祐理子訳)と発言したことが挙げられます。
    言わば、そういう「一番簡単なシンタックス(統語論)」たるアルゴリズムをいかに単数なり複数なり「選択」し、発明するかを受け止めた上で、それだけでは機能しない個体の、コミュニケーションの「意味」が造成されるかを考慮し、その上で「セマンティックス(意味論)」を構築しなければならない、私はそう推測するのです。それは自然的記号では尽くせない、志向的記号を浮き彫りにしていくことを伴う可能性があります。
 これらの事に、私はセンシティヴになりつつ、多田氏の免疫の「意味論」をこれまでも現在も受け止め、又これからもそうしていきたいのです。
  因みに多田氏は「『超システム』は、多様な要素を作り出し、また多様なアルゴリズムそのものを作り出し、それを選択しながら自己組織化していくシステムである。」(上掲の『ビオス』1号の5ページより)と述べております(私は自分の修論の34ページの11行目から16行目 でここを引用)。
 ところで、こうした言明に通ずることを、ダニエル・デネット氏は以下の如くに述べています。
ダーウィンが発見したのは、実際には<一つの>アルゴリズムではなく、むしろたがいに関連しあった、大きな一群のアルゴリズムであったのだが、ダーウィンはこれをはっきり言い表すすべがなかったのである。私たちは彼の基本思想を、今ではつぎのように定式化し直すことができる。
 地上の生命は、たった一本の枝分かれする樹ー生命の系統樹ーをとおして、何らかのアルゴリズムのプロセスによって、何十億年もかけて生み出されてきたのだ。」
 こうしてデネットの文章を参照して考えてみると、言わば単一ではない、一群の多様なアルゴリズムそのものの生成の基本原理に多田氏は関心があった可能性がある(ここでの系統樹のことは、後でモンドリアンの「樹木」と関わってきます)。
    そしてその「基本原理は不明だし、まだ解明されてもいない。だから『超システム』は、それを対象として解明するための設問を示したに過ぎないのだ。」と多田氏は上述の引用箇所で述べておられる。
   私はその設問に、何とか挑んでいきたいのです。

 さて、これまで述べたコンテキストでの自己中心性を踏まえた自己超越をする「時間」とアルゴリズムの選択への多田氏の関心の高さは、「生命誌」で「歴史」といういわば「時間」に関連した探求をしておられる中村桂子女史と、「どうも同じ方向を向いているようだ」と多田氏が仰り(中村女史によれば)つつ、対談等のコラボレートをされたり、東京大学を定年退官された後に赴任された東京理科大学生命科学研究所で、時間生物学に関心を持たれていたらしい(20世紀末頃にその研究所のホームページをみた時、時間生物学〈時間免疫学?〉を専攻にしておられた記憶があります)ことからも推測出来るのではないでしょうか。
 更に、その研究所を退官された後に出版された「免疫・『自己』と『非自己』の科学」(NHK出版・2001年)で多田氏は、
「こうして成立した『超システム』は、遺伝的に前もって決定されていたシナリオ通りに動くわけではない。さまざまな環境条件や偶然性などを取り入れながら、時間的な記憶を持った創発的なシステムとして、個性に富んだ行動様式を自ら作り出してゆく」(P210)とされ、やはり「時間」への関心を、前もってエスタブリッシュされた全体的なシステム(イエルネが説明したような)に欠けている要素として、多田氏は持っておられたように見える。
   例えば、「『私』はなぜ存在するか」(哲学書房・1994年)に収められた中村桂子女史、養老孟司氏との座談会で、多田氏は、
デカルトが『コギト』と言った時から反論はいくらでもあるんですけれど、一番はっきりしているのは直覚的自己ですね。その直覚的な自己にはどうしても勝てない。」(P53)とされた上で、「直覚的自己というのは時間とともに変わりますよね。」(P54)
と述べられ、更に子供の頃の自分はほとんど他人だと思っていて、「両棲類では成熟してから幼生に対して免疫反応なんか起こるんですね。」(P55)とも仰っている。
    いわば、「時間」と共に、生の様相と目的が変化することが、上述の直覚的自己のことにおいて述べられている。
    変化してしまい、もう自分とは分からなくても、しかしその変化する以前の自分を自分に帰属することができる。そういう自己を多田氏は前提にしておられる。
 
   しかし、こうしたことを考える時にすぐに難儀なのは、免疫への科学的で物質的な分析の前提となるリニアな線型時間やそこで措定される免疫的記憶を取り上げることを基盤にしつつも、その基盤における分析の限界を明確に自覚した上で、そうした線型時間そのものがどのように制作されるのかを考えなければいけない点です(それは後述する、中島義道氏の「超越論的」への狭義の定義に重なるものです)。
    そこに私は、(中島氏の解釈した)デカルトのコギトを再編して出来た、カントの「超越論的」な統覚、更にはそれを前提とした超越論的判断がどう必要とされるかを考えようとしたのです(本来ならば脳神経系の担う記憶と免疫的記憶の差異を位置付けるべきでしょうが、未だそれを出来ていません)。

  中島氏は、カントの「私は考える、はすべての私の表象に伴いうるのでなければならない」(『純粋理性批判』B131f)を、カントによるコギトの再定式化であるとしておられる(中島義道氏の1995年の慶応義塾大学での特殊講義レジュメで、私は初めてそれを知りました。私の修論の52ページ参照)。
 主体的に「私は考える」こと(更にはそこでの直覚的自己も含められるか?)は、個体性から生じつつある主体性としての「私」の表象に伴いうるのでなければならない。そのように表象される人間(多田氏が言うところの変化し続けるそれ)の主体性が必然的であるとする決定論でさえもが、人間が「過去」の記憶を、可能的に構成して成立しているものである。
 たとえ、昨晩に大酒を飲んで、自分が何を言ったか、やったかを思い出せなくとも、他者からその有様を聞いて、それらの過去の行為を自分に帰属させることが出来る。それがすべての私の表象に伴い得るコギト、私の思考作用であると出来る、その在り方を捉えだしたのが、カントの再定式化したコギトである、と中島氏は述べます(「『私』の秘密」・講談社・2002年・P10~14)。

 ここではそもそも、「時間」において、人間が何かを「決定」すること、あるいは「決定論」的に語り、考えるとはどういうことかそのものが問われている。
 進化にせよ、免疫現象にせよ、過去から現在にかけて「決定論」的にすでに何らかの自然法則において決定しているのか。そのことを人間が(人間の一部の科学者が)意志「決定」するとはどういうことか、という様に。
 言わば多田氏のお仕事においては、上述が如く、偶然性から目的が生じることと、個体性から主体性が生じることとが、同時並行的に捉えられているが、これは主体性を持つ科学者が意志決定することそのものが、過去から現在にかけて、主体性が個体性から生じる現象において捉えられることを、具体的に提示していることに他ならない。   (    その結果、「〈私〉としての科学者は考える、はすべての『個体性から生じる主体性としての〈私〉』の表象に伴いうるのでなければならない、と上述のカントのコギトの再定式化に当てはめて、そのことを位置づけることが出来る、だろうか、などと私は推論しているのですが、まだ確証はありません。申し訳ありません。)

 してみれば多田氏は、上記の座談会で養老氏から「免疫的自己というのは実在なのか抽象なのか、どちらでしょう。」(P47)と問われ、
「免疫学的な自己というものがあるかというとそれはない。自己ということがあるんだと私は思っています。ことというのが実在かどうかは考え方によって異なります。」(P47)と答えられた上で、「『自己というもの』があると考えるよりは、自己の行動様式が後天的に決まってきて、その行動様式そのものを自己といっているにすぎないのではないか」(P48)とされている。これは言わば、自己という「もの」は実在はせず、しかし「不在」という在り方、もしくは「出来事」としての存立に棹差すと言えるということか?
 この多田氏の考え方を、先のカントのコギトの話に当てはめれば、後天的に生じる自己の行動様式としての「私」の表象を、「後から」自分に帰属するものとしうる、そういうコギト、私の思考作用の在り方が、超越論的統覚と言えるのかもしれない。それは勿論、上述の科学者の科学的探求行為にも内含されている。

 ところで免疫系の中で、殊に<偶然性>が大きく機能している分子の役割を考えあわせるとき、そのようなカントの当時には考えられなかった性質を孕んだ現象に対して、決定論的な自然法則を或る程度前提にしたカントの認識論と「時間」において、既述の個体生成を理解する主体性は、「過去」にどう対し、時系列のどこにその行為を始める動因を置くべきでしょうか?
    言い換えれば、物質的で客観的に免疫現象への分析をし、描写するのが、決定論的でありつつ、そこに「偶然性」を取り入れることを、どう解決するか。
 中島氏は、『カントの時間論』(講談社・2016年)において、「カントにおける客観的時間がニュートンの絶対時間とは異なり、それ自体としてではなく、あくまでも運動する諸物体の動力学的な関係との相関で理解されていることを想起しなければならない。」(P103)
とする。そしてそこに「私の身体も、世界の中心に存在して、絶対空間に直接的に関係するような身体を意味するのではなく、超越論的主観と根源的に関連し、このことを通じて、常に空間関係総体の起点として機能するような身体、いわば『超越論的身体』を意味するようになる」とも述べる。
      又、中島氏は『事典・哲学の木』(講談社・2002年)での「超越論的」という項目において、「(別の語り方ではなく)物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」」とし、狭義の「超越論的哲学」とは「物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わること」(P718)とされている。
  前述の「超越論的統覚」に関してにせよ、「超越論的身体」に関してにせよ、ニュートン的な時間・空間を前提しつつも、しかしそれだけではなく、そこで運動する(人間の身体を含めた)諸物体の動力学的な関係との相関で、客観的時間が理解される、と言えるでしょう。
 してみれば、免疫科学の前提とする時間は、上述の<偶然性>をめぐってもニュートン的な絶対時間と異なる面を持ち、又私が免疫学と関連づけたいカントにおける客観的時間は<身体>をめぐって、ニュートン的時間と異なる面を持つ。ここで私が今まで書いてきたことが本当ならば、こうした二つの「異なり」、すれ違う面があるようである。これらのすれ違いをどう埋めていくか?更にはここでの身体と免疫的身体の異同は?
    これらを考えなければならない。
    正に、上述の「超越論的」の定義での、「世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。」という問いが、これらのすれ違い、異同をどうするかに、現れていると、私は考えます。
 これらのことへの思索で私は長い間、なかなか上手く解決出来ず、放送大学大学院で書いたカントについての論文『親和性が証明されるとはどういうことか』では、視覚と相互作用から親和性を捉え出す中で、カントが『純粋理性批判』で提示した「盲目的偶然」と無限空間、及び無限の「視点」(上述の超越的視点の「不在」は、そういった無限性、限定の「不在」と共に考察する予定です。)との関連を取り上げつつ、そうした問題を模索したのですが、全然成功していません。 

      ところで、今述べたように、上手くいっていないにせよ、「身体」と「無限空間」や無限の視点への私の問いには、私の中でどのようなバックグラウンドがあるのか。それをとりあえずこの文章では、以下で説明してみましょう。

     そこには広義の「自然とは?」という問い、更にはその自然への「個体の内と外とは?」という問いがあり、それを現代音楽を含む現代アートに通底する問題として、私は考える時があるのです。
     こうしたことを私は「機械(論)的」であることへの視点から、心と物・世界を二元論的に分けるのではない中での世界の立ち現れ、更には自己区別についての「境界」へと自分の問題が移行していったことに準じて、考えたりもします。
     ここで、そうした議論にとって重要である「個体」と「主体」へ、極めて不十分であることを重々承知で、議論を始めるためのみの暫定的定義を与えておきます。
 個体とは、自己同一性を表出するための外的な記述によって、その性質が表されるものである。主体とは、そうした自己同一性を表出しつつも、そこでの外的記述に留まらない自己規定をも、(自然、世界における)広義の外部との相関関係において表出する、あるいはされるもの。又はそうした中で他者であれ、外の「世界」であれ、何らかの「外」から何かを受け取り(把捉して)、又同時に「外」へと何かを発出すること、その過程で現れる相関関係の持続の(統一ある)表象が主体と言える(そして「個体性」「主体性」はこれら「個体」「主体」の「性質」である)。
   それでは、その自己同一性の内の「同一性」とその指標をどう定義すれば良いのか?この辺りの一連のことを物質の内実とその変化と、その物体としての表れを、電子の実在性等を考慮に含めた機械論的自然観を考慮しつつ考えるとどうなるのか?このことには一筋縄にはまだ答えは出せないものの、自分の来歴や過去の思索からどういうことをこれから自分が考えるべきかを少し示すくらいは出来るかもしれない。以下からそれを開始してみましょう。

    私は小学生の頃に、コンピューターによってプログラムされ、コントロールされた演奏をするシンセサイザー音楽によって音楽に目覚めました。その音楽経験は、音楽の作り手のメッセージを受け取るという側面よりも、機械的な音とリズムに接することで、世界の立ち現れ方を変えていく側面が強いものでした。作曲者の内面を演奏者の内面で解釈したものを、人間の肉体で演奏する、そうする中で作曲者・作詞者等の内的メッセージを読み取ると言った関係ではなく、機械的で人間の肉体性を徹底して抑えた上での演奏をされたものを聴くことで、むしろ逆にイマジネーションを強く世界へと向け、世界の相貌そのものを変えていく、そう言って良いでしょうか。それは、小学生の頃に描いていた絵画も含め、現代アートの個体とその内外の相貌自体を変える程のインパクトが私にはあった。
   機械的なリズムやメロディーに接することで、むしろ自然における、機械的にのみには割り切れない生命の相関関係を孕む世界を立ち現わしめることが出来ていた。後知恵的に子供の頃の自分の感性を位置づければ、そうも言えるかもしれない。
   そうした過程はいわゆるメロディー性のある、楽音で構成された、現代で「普通」とされる(などというと何が普通なのかと語弊がありますが)音楽だけでなく、世界の相貌と相即的な何でもない音、ノイズ、環境の音を音楽として受け取る、更に翻って音楽の環境性を逆に注意深く観察する、そんな自分の志向性を造成した気が致します。それは、自然に現代音楽(ミュージックコンクレートやサウンドスケープ、そして「電子」音楽を含めた)を受け入れる土壌を自分の中に作って行った気も致します。
      そしてそうした中で自分に起きて来た問い。
     それは「誰かの何らかの『主体性』の内面としての心(作曲家や演奏家の)があり、それが表現したものを聞き手の内面が受け取るというのとは異なる、自己と音楽の制作者・発信者という他者との交信と世界の立ち現れ、という関係性を捉える際の『個体性』とは何なのだろう?」
   言い換えれば、「内面としての心と外部としての世界、という主観客観の二元論ではなく、世界を受け取る行為(「主体」)と世界の立ち現れ。そうした出来事の過程での『個体性』の輪郭、『境界』とは?しかも上述のように生命の相関関係におけるそれとは?」
    そんな問いと言えるでしょうか。ここでの相関関係とは、冒頭の個体、主体への暫定的定義と照らし合わせれば、外から何かを受容し、又外へと何かを発出することがそのまま自と他を区別することになり、主体性の発生に通じてゆく作用総体と言っても良い。
    ここでの問いに立ち向かう時、近代科学の進展において、世界に存在する「立方体」(cube)としての「物」の主観客観の二元論的表出とその克服ということがまず第一のラインとして考えられ、そのラインで得られた視座からする免疫系という生命の「身体」(立方体の一種としての)システムで定義された自己と非自己とそこに見出される生命の個体とその自他や外界への「境界」の科学的知識は重要な足がかり、言い換えればさらなるラインになる、私はそう思っているのです。このことは最後のまとめでもう一度書きます。
     一方で、そうした問いをシンセサイザー音楽から受け取ったことが、その後に多様な民族の音楽を柔軟に聴く姿勢、世間で一時流行もしたワールドミュージックにもそれなりに対応する自らの精神をも私の中に醸成した。そこでは人間、民族、国家という意味を含んだ自他の「境界」への問題意識が間違いなく内在していた、とも言えます。
   先に私は音楽だけでなく、現代アートにおける個体とその内と外にも言及致しました。
    現代アートというと多様な広がりにおいて捉えられますが、自他の「境界」とかその場所性ということが(そのように広げた中でも)重要なテーマの一つであると私は思っています。
 芸術を映画まで含めるのなら、テオ・アンゲロプロスアンドレイ・タルコフスキー大島渚は「国境」というものを扱う中でそうした境界を扱っていたように思います。さらにはユートピアを持てない人間にとって、自らの「場所」を求める際の境界についても。
 そして絵画において、そうした「境界」という事を考える時に私の念頭にあるのは、例えばピエト・モンドリアンの「樹木」の立方体的(cubic )に表現された絵画の様なものなのです。
 モンドリアンの樹木の描写の試行錯誤の過程において、いわば「物」(事物)としての樹木が、その具体的な形象を脱色化され、次第に抽象化されていく。
   そうした過程において、個体としての樹木とその外界の「境界」そのものが曖昧になっていく、樹木がある種の「場所」そのものになっていく。
    嘗て哲学者の大森荘蔵さんがキュービズムについて述べたことを参考にすれば、立方体は例えば机を例に挙げれば、机という物、即ち三次元物体と机の知覚正面という知覚風景(面として境界として空間に接する)の両義性、二元的性質において人間に現れてくる。そして立体形状の「意味」は任意視点からの見え姿、立方体の知覚正面の「無限」集合に内在するのであり、世界に存在する無数の立方体を描出するとは、事物をそのまま描写するだけではなく、限定された或る視点、或る場所からの描写という要素を抜いてゆき、「無限」な多様性をはらむ視点からの存在であることを浮かび上がらせていくことを内包し得るものである。こうした中で、机という三次元物体とその知覚正面の無限集合の意味とを、重ね合わせていく。
   それは樹木という立方体についても当然同じことが言える。そして無限の視点を想定することは即ち「空間の無限性」を表出することでもある。
    こうしたことは絵画としての技法の変容ということもさる事ながら、「境界」を超えた複数の国家等の様々な共同体からの視点を或る単一のものからの視点に限定するのではなく、(宇宙)空間の無限性に直面する「地球」とそこでの生命の連鎖の存在を表しているようにも私は思えるのです。
    更には、先に述べた多様なアルゴリズムを内含する系統樹としての進化の「樹木」のメタファーとも考えられてくるのです。
 モンドリアンが活躍した時代は、様々な科学的発見によって宇宙や生き物等を内包した広義の「自然」の構造が機械(論)的で物質還元主義的に次々に解明されていく過程であったことでしょう。やがて「量子力学の基本粒子の無区別性」も問題として浮上してゆく。そうした過程で発見された事実は、或る場所や或る個体であるからこその特性を脱色化していくものだったのかもしれません。樹木の葉なら、或る場所の或る樹木の或る位置(位相)にあること、色彩等を剥ぎ取り、分子レヴェルに分解、分析する。そして「立方体」としての側面が如何なる性質かを、「空間的位相」とその視点において分析せざるを得ないことがあからさまとなっていく。そうした還元主義的分析の流れを拒否するのではなく、むしろ大前提とする中で、上述の如く立方体の多面性に準じた(無限性を孕んだ)多様な視点を成立させていった、そんな歴史があるように私は思います。このことは電子の実在性を考える際の視点、更にはその視点成立の時間点・同一性)ということにも共通すると思われます。
 又、物質を細分化していって電子に行き当たったとします。この電子を暫定的に究極の実体と見て、この実体が位置を移動し、性質を「変化」する(例えば上述の樹木の葉及びその葉脈の電子もここでの議論の対象に含まれる)、その幅が「瞬間」ということになるのか。しかしそう言い切れない多くの要件があります。
 例えば素粒子はそれぞれ絶対区別出来ない。電子は「この」電子と「あの」電子は区別出来ない。「今」ここに電子があり、次の「瞬間」にも同じ場所に電子があったとする。その時、「ここ」にある電子は、一瞬間前にここにあった電子と区別出来ない、同じであるか、「同一」であるかは認識しえない。次の瞬間にもここにある電子は、さっきここにあった電子と同じだとか、そういう類いのことは一切言えないのです(先に述べた「量子力学の基本粒子の無区別性」)。
 これは当たり前のことであって、電子は完全に数学的性質で「記述」(上述の「超越論的」の定義を参照のこと)される。電子というのは自己同一性がない。数学的性質で完全に同じものは完全に同じものであり、完全に同じということは個性、さらには個体性がない。
 こうしたことから、電子Aが電子Bと同じであるとかないとか、そういうことが定義出来ず、その相等性によって、「瞬間」の切れ目、入れ替わりの表現をそこに見ることが出来ないとしたら、さらに「電子」が無機物であり、自己区別出来ないとしたら、「瞬間」はどう定義されうるのでしょうか。その入れ替わりに伴い得る視点は、どのように知覚正面としての電子を捉えるのか?
 それでも物質の分割にこだわらず、あくまで「個体性」を有するものを「実体」として、その変化、性質において、「瞬間」は指示されうるとするのか。しかし「個体性」自体の定義が一筋縄ではいかないことは、先に確認した通りです。
 しかしそうであるにも関わらず、上述の「個体」への定義での困難、循環を解きほぐしていく上で、是非ともこの「瞬間」について考慮しなければならないのです。
 それでは「今」という語はどうでありましょう。「今」と「今でないもの」、今と非今という概念の「区別」によって「瞬間」は規定されうるのか。しかしでは「今」とはなんでしょう。「今」とは現在只今の瞬間であるというと、これも循環的定義になってしまう。
 「瞬間」とは正にその語によって指示し、かつ指示される、という受動/能動の中にこそあり、嘗てカントが<表象>に二重性を与えたように、「瞬間」そのものが、「表象」として成立し得るのか、それも背後に「実体」や「基体」があるかどうかということ自体が定かではない概念なのだと私は推測しております。しかしそうであるにも関わらず、「瞬間」という語を使い、それにより内包されていく物事があるとしたら、それはどのようなものなのか。私は分からないながら、頭を抱えつつ、そう問うてしまっているのです。
   このような問いは現代音楽の分野で例えばかつてジョン・ケージがダニエル・シャルルに問われたことにも通じていくかもしれません。
「現代音楽は未来の音楽でも過去の音楽でもなく、現在の、まさしく今このときの音楽だと言うとき、あなたは、普通、時間の中に区別される三つの次元-過去・現在・未来ーのうち、真中のものに特権を与えているように見受けられます。しかし現在だけを-あるいはこう言った方がよければ、瞬間だけを-考えること、それは時間を十分に考えることなのでしょうか?そのとき記憶はどうなるのでしょう?ユートピア?音楽的記憶、音楽的ユートピア
   瞬間というのは、ひとつの神話なのではありませんか?」(『ジョン・ケージ著作選』(小沼純一編・2009年・ちくま学芸文庫)より「ダニエル・シャルルの33の質問に対する60の答え」から引用)
 さらに上述のようにして、幾何空間が無限に分割され細分化され(無限の視点の位置を得)ていくことと、そのような分割では分けきれない単純実体がどこかに存在しているのか。このいわば古くて今尚或る意味で続いている問題についてどう考えるかで、「瞬間」という時間「点」(幾何学的な「点」によって表出される。)への定義、及びこの語への「内包」ということ自体の意味が変わってくる。猿や花や木とは違って、こうした「空間(性)」の分割へ内包されていくか、もしくはそれをどう認識するかということが、ここでは絡んできてしまう。
   そして「同一性」が観測されないにも関わらず、電子が実在するという時の、無限に多様な視点からの知覚正面と、そこに電子が存在するということ。このことを主客二元論として分けずに捉え切るにはどうしたら良いのか?
 さらには空間の一部としての、(個体としての)「物体」という概念が、どう生成し、そうした物体が分割されていくこと、そこに実体が位置づけられること、このことを考慮に入れた上で、「瞬間」という概念を、さらにそのことの「意味」「内包」を考えなければならない。
   そうした中で、上で述べたように或る事物と空間の境界が曖昧になる。事物とそれが存在する場所・空間がどこで区分されるのか?
   さらにはそうした空間や、事物と空間の「境界」は、ケージに詰め寄るダニエルさんの言うユートピアを間接的に象るものなのか?
   このように問うことが出来るかもしれません。先に触れた映画と国境のことの反響と共に。
  
 この様に、「自然」への機械論的で科学的な観点に最大限の敬意を表しつつも、それ自体から生じた多様な視点と、そこから浮かび上がる生命の全体的な連鎖を扱う時、上述のように曖昧になった樹木と外界の境界を、意味論的にどう設定するのか。それがただ機械論的には割り切れないとしたらどうすべきなのか。私はそうしたことにとても関心があるのであり、繰り返しになるようですがここで先に予告的に挙げた事を言い直せば、多田富雄氏の『免疫の意味論』での免疫学的な生命の「個体性」の、身体という立方体においての「意味」論的な扱われ方、生命の自己区別(自己同一性)などは大変に示唆的であるのです。そしてこうした視点は、現代音楽、絵画、映画を含む現代アートにとっても示唆するものがあると、半ば直観的に考えているのです。
 科学的な観点にせよ先述の音楽での方法にせよ、「機械(論)的」であることを拒絶するのではなく、むしろ正面から最大限にしっかり受け止めた上で、しかしもう一回機械論的には割り切れない「個体性」の「意味」をどう構築し直すか。そして、物(外の世界での)と心の二元論へと分かれていること、「分断」を如何に克服するか?
    これは哲学的にも現代アート(現代音楽を内含した)的にも通底する問題であると、私は推測しているのですが、如何なものでしょうか? 
 
  こうした問題意識を、科学的問題、特に免疫の分子論を鑑みつつ、現代アート的な「位相」をも背景に私は考えようと思っております。

      特に、物質を無限に分割して原子、電子へと言及する際と、或るモノを無限の視点から、無限の側面から観測する、そのことによる知覚世界の描像の無限集合について言及する際の「無限性」、これら二つの無限性の重なる点と相違点については、冒頭に述べたどこにも中心がないシステムということからも、極めて興味深いものを感じながら、今回の文章では取り敢えずはその問題意識のとば口のみ示すに留めておいて、今後の課題とさせて頂きます。

(   上述の言わば「無限空間」の無限性が、生命個体発生における、いわゆる自己言及のパラドクスの無限後退と関数空間の「位相」に関わり、そのパラドクスから統語論と意味論の分岐が生じたという論理学の哲学の歴史を参照しつつ、そうした分岐が、かつて自分がカントの文脈を、anzeigenとangebenで分析した事に当てはまるのではないか、更には指示と記述ということに対応している可能性があるのではないかということをも、私は考えました。更に無限の外敵{細菌等の}の可能性と、それへの対処をする有限の物質の集合と免疫系の事をも。それらも全て今後の課題とさせて頂きます。

    そのカント読解について、ここまで書いて来たことも含めて、来月、即ち5月末日までに出来れば、より具体的な指針をこのブログで示させて頂きます。)