「物の廃棄・崩壊を前にしての『経験』とは?」-ゴミ収集の現場から-(1)


(以下の文章への注意書き)
〈 私は、自分のブログにおいて、公立の清掃事務所で臨時職員の立場でゴミ収集をする者として、又ゴミを廃棄する一住民として、「物の廃棄・崩壊を前にしての『経験』とは?」と問いたいのです。
それは、物質の崩壊と生成を繰り返す生命個体が、なぜ個体性を維持し、超越論(先験)的判断を必要とするかを問う、私のブログでも提起している、生涯をかけた研究テーマに根底で通じています。
しかし、今年の4月のブログ開設以来、これまでいくつか書き散らした文章らしきものが理論的な面のみだったのに対し、そのゴミ収集への問いはどちらかと言えば実践的な面から、同じ提起を考察します。
ただ、哲学の問いを持ちつつ、ゴミ収集現場で臨時職員として働いている経験をも持つ人間は、あまり他にはいないかもしれないので、そういう視点からこそ見える実践の理論的側面をも逆照射出来れば、幸いなることとも考え合わせています。
今回の掲載分は、上述の問いかけのいわば試運転であり、時々同じテーマで気が付いたことがあったら、これから順次不定期に、書き連ねていこうと思います。
又、だいぶ前にFacebookに書いたものを、再利用する文章であることもお伝えしておきます。〉


臨時職員、派遣職員等の立場で私の見て来た範囲での東京都23区の中の幾つかの区の公的なゴミ収集の現場では、少なくとも2つの差別が絡んでいる。

一つは、端的にゴミ収集自体が、汚く、あまり知力を使わない仕事であり、上等な仕事ではないとする(多くの場合に誤解に基づく)差別を広い社会的文脈において受けることである。
しかし、もう一つは、そのように単純ではない。
まず、そうしたゴミ収集への差別に抵抗する為ということも多少絡む可能性において、ゴミ収集の「経験の時間」を神格化する。30年間の経験がある、と言うように。さらにそこに、誰それとは10年の付き合いだから、と言うような村意識で、臨時職員を含めたよそ者を排除、差別化することが加わる。
しかし、ゴミ収集の現場は、どんなに長年の経験があっても、毎瞬間に変化する、全体を把握し難い面がある。
ついさっきゴミ収集を始めたバイトの人間と、30年来のベテランとは、同じ程度に間違う可能性がある。
それはゴミ収集の現場で起きる狭義の物質的事象(物の廃棄・崩壊等の)に対してのみではなく、ゴミ収集をする人間、例えば自分以外の正規職員、バイト職員の「行動」への誤判断ということもある。様々なことを多方向に向けて行うゴミ収集の現場においては収集員のお互いの行動というのは、目の前にいるようでありながら、中々把握し切れない面があり、単純にその面が現場行動にとって決定的だったりする。
もちろん経験が現場においてものをいう場面もある。長年の経験を尊重しつつ、逆に「経験」とは全く関係なく、毎瞬間ごとにバイトと正規職員は、現場の出来事(ゴミ収集をする人間の行為の内実も含めた)を平等な立場において、出来得る限り冷静で正確な言葉において話し合う必要がある。そういうバランス感覚が必要である。
しかし、多くのゴミ収集正規職員は、いつもではないが少なくない確率において(上述の、差別への抵抗の為に、ということもあるのだろうか?)、そうした平等さを避け、無根拠に自分たちの「長年の経験」をどこかで半ば無根拠に持ち上げたがっていることも、時としてあるように私には感じられる。
そして彼らは、「長年の付き合い」を持つ同士でどこか村社会を作りたがる。清掃正規職員、あるいは養生会社のドライバーとの間において。バイトの人間が、「長年の経験者」の意見に楯突こうとすると、あまり大した思慮も為されることなく、多くの場合、極端な拒絶が彼らによって為される。

かくして上述のバランス感覚は、ずっと失われていく悲劇は続く。
この悲劇を、なんとか改善出来ないものだろうか?

本当は、今こそ、労働者は正規職員とバイト職員、派遣職員、臨時職員が、お互いのコミュニケーションを少し過剰なくらいに見つめ直し、常に常に常にきちんと意思疎通が、相互の行動理解が出来ているかを、毎瞬間毎瞬間(本当に毎瞬間毎瞬間)チェックして、お互いに排除し合わず協力し、労働者への不当な搾取や圧迫に抵抗すべき時なのに。

「バイトの連中はガタガタ言わずに黙って俺たちについてくりゃ良いんだよー!」的な文言と意識は、長い目で見れば自分で自分の首を絞めることに、ゴミ収集正規職員達は気付かなければならない。

その気付きのなさの前では、「ゴミ収集の職場経験」の30年、40年、いや50年などというものは、本当にどうだっていいものだということ、屁でもないということを。

このことを私は強く言いたい。
そして物質・物体が日常生活の文脈から離れ、廃棄物として分解、崩壊することに労働として関わる「場所」において、労働者の、いやもっと広く人間の「経験」とは、更には「先験的」なものごととは何なのかを、私は改めて考えざるを得ないのである。

「盲目」概念の視覚的意味(1)


 カント(少なくとも批判期のカント)は、「盲目」という言葉(あるいは概念)に、どのような視覚的意義とその否定を込めたのだろうか?
 カントにおいての「能動と受動」へのスタンスの或る部分は、「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(KrV B75)という言明のもとに表出されている。「盲目」という概念を通じて「能動/受動」が考えられている。
 ところで、これまでも示した純粋理性批判(以下、KrV)の「理想」章での汎通的規定性を取り上げつつ「親和性が証明される」と述べられる箇所には、言うなれば親和的な「関係」が証明されるという意図が込められている。そして「受動」の性質も込められている。否、それに留まらず、受動的であり、かつ能動的な何かが、その「証明」にはある。少なくとも私は、そのような仮説を立てているのだ。
 更にカントにおいては「関係」のカテゴリーには相互性の関係があり、その親和性の証明の箇所には、そうした関係が含まれる。
 このカテゴリーのもとである判断の「関係」の三つの内の選言的判断について、カントは一つの命題を挙げている。
「世界は盲目的偶然によって存在するか、内的必然性によって存在するか、外的な原因によって存在するかである。」(KrV B99)
ここには「盲目」という形で「視覚」とその判断、思椎、そしてすぐ後に触れる「思考」との関係が含まれている。
 マーティン・ガードナーは、非生物の世界と生物の世界とのギャップを埋めるために提出される説として、「偶然と自然の法則が組合わさって作用する」という説を提示し、それを「盲目的でない偶然」と表現した(『新版 自然界における左と右』、1992年、マーティン・ガードナー著、藤井昭彦他訳)。「盲目的でない」という表現には、たしかにそのような「自然法則にも適合した」という意味もあるだろう。そしてカントが「盲目的偶然」と書くとき、逆に自然法則に適合しないという含意も半ばにおいてあるに違いない。しかし、そう言った意味合い以外に、いわゆる「視覚」的な意味そのものも、カントのテクストには確実に存在するのではないか。それも、自然法則への「適合性」という事と無縁ではない形でである。適合的であるだけでなく、「視る」という「能動的な」意味を持つように思えるのだ。
 してみればカントにおいては、視覚そのものと視覚モデルによる思考・表現があると共に、そうした視覚モデル等を或る種微妙に否定し、「身体」感覚を表現しているところがある。少なくとも私にはそう思える。この事を、カントが述べる「思考の方向性」に或る種内含されると私が考える「時間の方向・向き」及びそこで措定される「瞬間」への観点を考慮に入れつつ考える事は可能か、しばらく(何回か)模索してみよう。今回は、その小手調べである。
 因みにここで一つ私が前提としているのは、このブログで前回に取り上げた福岡伸一氏の『福岡伸一、西田哲学を読む』(2017年、明石書店)
では、シュレーディンガーの『生命とは何か』では、「すべての物理現象に押し寄せるエントロピー(乱雑さ)増大の法則に抗して、秩序を維持しうることが生命の特質である事が指摘されていた、との記述である。そしてここでとても大切なのは、物理学者だったルドルフ・シェーンハイマーの言葉として、同じ福岡氏の本にで提示された「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という記述である。ここでの「絶え間なく」は即ち「瞬間瞬間」という意味が含まれていると私は捉えるものである。いかなる瞬間にも、「非生命(生物)的」な物質が無秩序な崩壊へと向かうなかでの生成がなければ「生命(生物)的」な個体性は成立しえない(上述のガードナーの意見を想起して頂きたい)。
 こうした「瞬間」を、上述の文脈での「思考の方向性」を「時間の向き」という事象に重ねる形において、私は考えたいのである。更に、予測のつかない「偶然性」の中での、上述の無秩序な崩壊をも考えたいのである。
 又そうした中で、カントが身体と空間、及び思考の方向性をめぐって、anzeigen(以下、azと表示する)とangeben(以下、agと表示する)いう二つのタームを使い分けているのではないか、という、かねてからの私の仮説の検証まで、ここでの私の考察が進めば幸いに思う。

  それでは考察を始めよう。
非視覚的ではあるが、否定的に、虚焦点として考えられるものが、理念としてある。少なくともカントのテクストにおいては特にそうである。
 今現在、「瞬間」とは、人間の言語行為、或いは線を引く、という形のことをされた上で、しかし否定的に<与えられたもの>、感性的直観において、与えられたものとしてある。
 無限空間が「与えられる」中での直観において、与えられる。
 更に視点を変えれば、意図的に、「能動的」に、作図したり、線を引いたりする中で、意図外部的に与えられるものごとがある。光が、感官において与えられる第三者であるように。

 ところで、私はここでの議論を始めるにあたって、「物体」についてを、「立体」としてここでは扱ってみよう。それは「身体」をも内含するものである。
 様々な位置から、無限な視点から、そうした立体は異なった見え姿がある。5秒前はここの位置から、5秒後はこの位置からというように。立体は無限の視点からの見え(姿)を簡単に作図する幾何学的方法がある。私が汎通的規定という時、そうした「物体」への視点とその立体形状、及びその幾何学的方法を考えている。その無限な見え方の集合として物体はある。そうした中に「否定」はある。例えば幅のない線とか、広がりのない点というように、「広がり」とか「幅」ということも、あるいは(例えば)ここの視点からは楕円であったのか、もう少し上からは円とか、そのような、~ではない、ここからは円だが、ここからは円ではない、というように「否定形」で考えられる何かがある。
 二点間にはただ一つしか直線は引けないか、何本も引けるか、この事も、引いてみる中で、そこに二本引けないか、幅がないとは、広がりがないとは、と理解できる。一本の線も、書いてからそれを視るまで微妙な時間差がある。しかしそれを書いてみることで、広がりのない「点」としての点時刻を理解することが出来る。一点では理解しえない、あるいは(過去として)振り返られる中で初めて理解される「今現在」ということも、線を引いてみて、引いてみる前、引いてから少したった後、そういったことの中で、そうした幅や広がりがない一点ということを理解出来る。それは「書く」という能動性と、書く中で視えてしまう受動性と、視る(視ようとする)という能動性が、入り混じっている事象なのだ。
 「点」にしても、物体にしても、そのようにして、ある理解をしようとすることについて、一度は否定されることを通じて、その集合として理解出来ることというのがある。幅がない、広がりがないという否定形である。
 カントが無限空間を制限する中で、二次元的な図形が規定されるというのも、無限の広がりを持つ空間への直観を持った上で、それから否定的に、そうした無限の広がりが「ない」という形で一つの図形を規定出来る。「瞬間」も、幅を持た「ない」線として、線形の時間において、理解される。線を書く中で、書いてみることで、「一点」では覆い切れ「ない」、無限に分割されていく「瞬間」を理解出来る。
 「外」に「形」として「線」として、立体として、何かを書く(能動的行為の)中で、そうした「瞬間」を、<否定的に>理解するのである。
 例えば無限空間への「直観」を持った上で、広がりの「ない」、二次元的広がりの「ない」点が、「ない」という形で理解出来る。又、点というものでも覆い尽くせ「ない」、「瞬間」の無限分割が理解される。それは感性的直観を持ち、かつ、そこから否定的な言明、概念、そこに必要とされる悟性をそこに一致させていくという、悟性と感性の一致があり、そこにこそ、私が今回に冒頭から言及したKrVの「理想章」の文脈での「親和性」はある。

 視覚を所有しない人間、言わば盲人が、外界を文脈的に理解する。例えば大「過去」のものは、直接視覚に「与えられて」おらず、いわば、それについて「盲目」である。しかしその上で、否定形を含め、概念として、外界の事を理解出来る。視覚が「ない」という形で、正に「否定的に」視覚によってとらえられるはずのものを受け取る。非視覚的、non視覚的なことも、正に文脈的に、否定形とはいえ、視覚的なものをとらえる中で、はじめて成立する。それも、言語的な「意味」の回路網において理解されるのである。視覚感官からとらえられる性質のものを、例えば全盲の人でも、意味的にとらえられる事をここでは考えると、分かりやすい。
 ここでのカントについての議論においては、ただ視覚モデルをめくらめっぽうに拒絶するのではなく、「否定」という事象を成立させる文脈的意味のネットワークにおいて、外界を、あるいは他者の意図を理解する事を得策とするのである。
 私はカントが、人間の認識について「視覚モデル」のみで考えようとしていると言い張りたいのではなく、正に「否定的」とはいえ、視覚的なものを、文脈的に理解する中で成立することがある、ということを言いたいのである。例えば<今現在>とか<瞬間>を、視覚的に表現することはできないとしても、しかし<できない>という否定的な形ではあれ、視覚的に表現することが、プロセスとして必要なのである。
 全盲の人に、「今」という瞬間を説明する時、その人の手を引きつつ、例えば砂の上に線を引いて、少し前、今、と何かの線を一緒に引いて、時間経過を体験してもらい、且つ、その線上の一点を通過する、というところに<時間経過>がある種現れる、としつつ、でも<瞬間>というのは、そうした線的幅、いや点でさえも覆え「ない」と<否定的>に表現する。たとえ、視えないものであっても、しかしまず視覚言語において、全盲の人に伝える中で、その中で「視えない」部分、事象を「否定形」によって伝えようとすることを、私は考えている。
 カントは視覚では覆えない認識の部分があることを十全に理解していたであろうが、しかしそれを<否定的>に、しかし積極的に、文脈的に、(意味の回路網的に?)取り込み、その中で、五感を含めた認識を考えている。そしてそれこそが、虚焦点とはいえ、<理念>として目指される<光>のように、視覚的にとらえられるものがある。むしろ、視覚では覆いきれないものを、その否定形において取り入れ、それを虚焦点として目指すところに、カント的な<理念>の一側面はある。
 視覚自体が、言語的に構成される面、又、非視覚的な感覚でも、「視覚」によってとらえられるものを<否定形>において(文脈的に)とらえられる中で、成立することがある、とまとめれば私はそう考える。

 そうした際の虚焦点としての理念を「示す」という事、あるいは又、カントにおいて、徴表(merkmal)としての概念のもとに含まれているものであるが、そうした「もと」にありつつ、暗示された徴表を目指す事、見出す事、又そうする事において、外界の事物を(直接)に指し示す事(視る事)、この二つの意味が重なった所に、anzeigenが使われる。そしてこの(そうした方向を)「目指す」という所に、「虚焦点」などの光と「視覚」についての比喩(類比・類推?)が見られる。
 一方で内包はカントにとって、概念が部分概念として、諸物についての表象の内に含むものだが、そうして内に含む、含んでいくこと(方向・領域)にangebenが使われている。直観から多様を受け取り、且つそれを掴み(begreifen)、概念(begriff)していく、それは人間が認識において或る瞬間の内へ含み、その瞬間を(幾何空間において)無限分割していくものであり、且つ、概念の内へ(<瞬間>も含めた概念の内へ)含んでいく事(implicate)、内へはらんでいく事(begreifen)、と共に「外」へと表示する事、これらの事にangebenは対応している。
 しかも冒頭に書いたように、anzeigenとangebenがペアになっている側面が、勿論その文脈にもよるが、あると思われる。azが外界の事物を指し示し、且つ「暗示」された概念としての「徴表」を目指すという事であったのに対して、agは、そうして指し示し、且つ目指すそのプロセスにおいてのratio(比例)、又その認識を成立させる条件・機能という事を、上述の概念が自らの内に含んでいく事に、重ねていくところにあると、私には思われる(左から右への線による線形時間を関数的空間において示す際の〈瞬間〉の表現という事も、ここでは私的には考えている)。

 以上の事の検討を、手始めにカントの『プロレゴメナ』第13節の、或る部分(鏡像の左右反転について書かれた)を、KrVの「弁証論付録」(以下「弁付」)での或る部分と関連付けて位置づけるところから始めてみよう。
次回の「『盲目』概念の視覚的意味」(2)は、改めてその事を中心的に取り上げるつもりである。

「ロゴスとピュシス」における親和性の位相について


 私は放送大学に提出した修士論文(以下、Aと表示)という概念において、「親和性(Affinität/Affinity)」への暫定的定義をした上で、カントにおける「親和性」の特徴について少し述べ立てたのであった。
 ところで、最近読んだ福岡伸一氏と池田善昭氏の共著『福岡伸一、西田哲学を読む-生命をめぐる思索の旅-』(明石書店、2017年・以下ではHNと表示)で有機体の個体性について提示されている或る表現が、私が上述の親和性の「特徴」で述べたことと共通する面があると共に、私がカントの批判期から晩年に至るまでの著作に感じていること、特に身体に関する辺りについては、すれ違う面もあるのだった。 
 又、今のところ余談ながら、私が以前から注目する多田富雄氏が自らの超システム論で述べられた、システム、ネットワーク、そしてプログラムそのものの崩壊と、福岡氏が自らの動的平衡論で物質とそのシステムの崩壊として述べられていることには、看過し得ぬ相違点があるとも思えるのだった。
 そうしたプログラムは、リニア(線形)時間を前提にした創作物であって、そうしたフレームを基礎とした上で、生命の動態を表出し得るかどうかという設問と共に。
 
 これら二つの相違点は、別々であるようでいて、実は繋がりがあるのではないか?私は今、そんな感触を持っている。それは上述のHNでも主題になっていたロゴス(論理)とピュシス(自然)の対立・対照に重なるとも思える。

 そして「親和性」の位相が、その対立の在り方によって変化するように思えるのだ。
 古代ギリシア、ローマ世界、中世キリスト教デカルトの機械論的自然像。これらそれぞれの自然観によって、何がどう「親和」するのかが変わってくるはずだ。
 人間にとっての神が親縁的で親和的とされることもあれば、広義の生命世界全体と人間が親和的とされることもあったはずである。更には、化学的親和力が科学的で精密に位置づけられるようになってから、そうした親和性と親和力の関係性も大切な問題だろう。
 そして、生命科学的に生命の個体性が定義されるようになってからの、生命世界と人間の親和性も、「個体」の定義の変更により、変貌するはずである。

 そうしたことについて、私はこれから少し模索してみたいのである。

 まず私が、上述の修士論文での(カント的文脈での)親和性についての記述を提示してみよう。

「・・・現時点で与えられる『親和性』への暫定的定義を与えておこう。親和性とは、悟性と感性を区別しつつも、その一致点を見いだすための根拠を示すものである。この或る種単純なことが、文脈を変えつつ、変容している。悟性と感性が『連続性』において或る種の段階を経てつながっているのではなく、区切りつつも接点を求める。お互いを区別しつつも、一致する根拠を示すものとしての<親和性>はある。」

 こう暫定的定義をした上で、私は親和性の形成が、以下の如く起きることを示唆した。

「 それは特に、外的感官を通して、与えられたものが内的感官を機能させるということにおいて、『外』から『内』へと向けられた視点と、『内』から『外』へと向けられた視点、こららが『分析論』と『弁証論』とそれぞれ(交互に)現れ、そのことが『親和性』の形成のダイナミズムそのものを生んでいることに通じている。『内に』含み、implikateしていくことと、それを展べ開く、explikateしていくことの交互の作用こそが、カントでの『親和性』を形づくるのである。」

 ところで上述のHNにおいて池田氏は「包みかつ包まれる」という表現を、細胞の外側と内側の間で起こっていることの表現として挙げておられ、又、ライプニッツの「モナドロジー」解説書でも提示しておられる。
 この包み包まれるは、私が正にカントがライプニッツモナド論を参考にしつつ書いたであろう、『純粋理性批判』の「理想論」の或る部分、即ち先月のこのブログで取り上げたそれにおいての親和性が、どう形成されるかを捉える為のimplicateとexplicateしていくことの交互作用と重なる部分があるのではないかと、私には思われるのだ。
 即ち、explikate、展開していくことと外部に包まれることが重なるのではないか?
 それは例えば、細胞が外側から包まれると共に外側の環境に展開することと言えるだろうか。
 しかし、こう書いてすぐに疑問が浮かぶ。「外部に包まれる」ことと、外へと「展開」していくことは、結構近いものがあると共に、果たして完全に同一であろうか?同時発生的であろうか?という疑問がである(又、上述の交互作用ということと、「かつ」ということにも、やはり相違点がある。ただ、そのような相違点があるにも関わらず、これらの一致点を認識することには意味があると私は考える。)。
 否、そうした「同一」についての疑問及び矛盾を克服する「自己同一性」への定義を模索することにこそ、ここでの課題はあるのではないか。
 即ち、細胞や生命個体の、内と外での「親和性」を考える上でも。
 ここで、上述の福岡氏、池田氏の紹介にも出した「個体性」についての現時点での暫定的定義を(「主体」への定義をも含めて)、それが極めて不十分であることを重々承知の上で、Aからの引用を振り返りつつ、与えておこう。

 個体とは、自己同一性を表出するための外的な記述及びそこでのロゴスによって、その性質が表されるものである。と同時に個体、及び主体とは、そうした自己同一性を表出しつつも、そこでの記述、ロゴスに留まらない自己規定をも、ピュシス(自然)における広義の外部との相関関係において表出する、あるいはされるもの、又はそうした中で他者であれ、外の「世界」であれ、何らかの「外」から何かを受け取り(把捉して)、又「同時」に「外」へと何かを発出すること、その過程で現れる相関関係の持続の(統一ある?)表象である。 
 さらにここでの「外的記述」とは、外的経験において外から与えられた事象を外へと記述すること、あるいはそのように記述されたものを言う。ここでの「外的経験」の形式は、カントの定義を借りれば「空間」である。又「身体」もそうした空間での外的な事象であり(例えば自分の心臓であろうと脳であろうとそれは外的な事象)、それを文字や数学的な記号、図形等の表現という外的な事象に表現可能なことばや記号、更にはロゴスにしていく、あるいはそうしたことばや記号、ロゴスによって記述すること、これが「外的記述」と言える。
 
 このような定義をした上で、急いで付け加えれば、ここで「自己同一性」をどう定義するかそのものが、それ自体として、検討に値することであり、この概念をただ突然何となく使用する、というのは早計であることを、私は十分に自覚している。
 自己同一性とは、個体性を有するものである、と言うと、循環論的な、トートロジーになってしまう。又、定義出来ないが、個体が自己同一性を持っていることを内含的に確認する現象を見いだすことを想定しても、では何が見いだせた時に、「確認」出来るのか。上述の個体の定義について、個体が自己同一性の現されるための外的記述により、その個体が自己同一性を表出するための外的記述によって性質が現される現象が確認出来た時、というのでは、単なる同語反復であり、<個体>の定義についての「真理」に到達し得たという根拠にはならない。

 それでは、どのような要件を、どのような位相、視点から満たし、規定(限定)した瞬間に、「個体性」の、あるいは「自己同一性」の定義に到達したと言い得るのであるか。
 言ってみれば、上述の難点がありつつも、カントは何とか「個体」(及び自己同一性)さらには「主体」についての定義をどこかに内含させていてもおかしくはない。その重要な手がかりが、カントがA版演繹論、「自分自身の汎通的同一性(Durchgangige identität)」について述べているところにある。そして正にそれと密接に関連する形で、カントは同演繹論において、「親和性」について論じているのである。

 ここで上述のHNで西田幾太郎がかつて紡いだテキストを元に提起されている「逆限定」という概念を取り上げてみよう。「逆限定」という概念は、今述べてきたトートロジー、循環論的議論が含み持つ矛盾を回避している可能性、あるいはそうした回避を行おうと意図しているとも思えるのだ。これまで私が述べた「規定」は、ドイツ語のbestimmungであり、「限定」とも言えるが故に。
 そして、「逆」ということが、逆向きの時間、因果性等とどう重なるかは、考慮から外せないからである。
 中島義道氏は『カントの自我論』(日本評論社、2004年・2007年に岩波書店岩波現代文庫に再収録された)で自らの自我論を論ずる中で、カントのテキストでの超越論的観念論は、現在から「過去」への向きの「想起モデル」において考えられているとことである。中島氏はそうしつつも、上述の西田の「無の場所」という概念を、「根源にさかのぼる運動が行き着く」「壮大なおとぎ話」の一つとして、否定的に捉えている。
 ここには、興味ある一致点と相違点が存在する。
 日常生活で普通に過去から未来に向けた時間とは、逆の時間が、「自我」や「自己」への規定において取り上げられる点、更には科学での線形(リニアな)時間(とその方向?)が設定される以前の、個体・主体の作用への考察を重んずる点では或る一致を示すが、「未来」の実在を前提とした上で、その未来から現在への時間の存在論的価値を認めるという点においては、中島氏は否定的であると私には思われる。
 なぜ、どのような学問的背景において、こうした相違は生じるのであろうか?そしてそこに、ピュシスとロゴスの相違と重複はどう反映するのか?
 
 ここで、今回取り上げたHNで、量子力学における観測問題をベースに、歴史は観測したときに初めて作られるのかについて論じられていたこと(P107)
を思い起こそう。
「木を切って年輪を見たときに初めて世界が作られている、というのが、年輪のほうから環境に対して作用をもたらしているということになるのではないかと思った」(福岡)
「ピュシスの中にもともとそういう逆限定があって、観測することによってそれが確かめられたというふうには理解できないでしょうか。」(池田)

 この、観測することで初めて作られる、制作されるということと、ピュシスの中に逆限定があって、観測においてそれが確かめられたということ。この中での時間・位相の考え方の差異が、上述の相違に影響している。
 (ロゴスによって?)制作することで初めて(過去から?)立ち現れる時間と、ピュシスにおいてもともと逆限定があり、それを観測で確かめると共に、そこに発見される時間の作用という対照においてである。

 これらの微妙な差異がHNでの時間観と中島氏のカント論での時間観の違いで効いているのではないか。

しかしいずれにしても、冒頭で取り上げた線形時間を前提にしたプログラム観に距離を置くことでは共通しているか。

 こうした諸観点からの「距離」を考慮に入れつつ、冒頭での、「プログラム」問題や、上述の「包みつつ包まれる」と「内含と展開」の差異の問題を、「親和性の位相」をめぐって(今回の始めの方に書いた、自然観の歴史での「親和性」の変貌への認識を踏まえて)考えることは、今後の重要課題である。

 

移行と有機的身体の変形

 先月の私のブログでの「親和性」(Affinität/Affinity)を、カントのどの文脈、テクストの相関を主軸として取り上げながら手探りするかの具体的表示とその理由を、今回は述べてみよう。
 ただ、今回はあくまで手探りの途中であり、読書メモ的になることをご容赦頂きたい(元より本ブログは、「研究日誌」、哲学ノートである)。
 さて、まず第一に注目するのは、『純粋理性批判』(以下KrV)の「理想論」の以下のパートである。急いで断らせて頂けば、このパートは嘗て放送大学の大学院に修士論文を提出した際にも中心的に取り上げたが、興味深い部分であり、その際には関連付けなかった、主に二つのパートとアンチノミー等との関連で、今回新たに取り上げたいのである。
 その際の考え方としては、古代ギリシアプラトンからユスティノス(先月も言及したトマス・アクイナスのキリスト教形而上学の先駆としての)へと至る中での「親縁性・類縁性/親和性」が、魂(心)と物(対象)の二世界論的世界に現れるさまを(主に柴田有氏の議論を参考にしつつ)一瞥した上で、先月も言及したエミール・ブレイエの『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社・2006年)(以下、初スト)で提起されている生物学的唯物論においてそうした「親和性」をとりあげた場合、それは(特にすべての諸「物体」とその相互浸透との関連において)どうとらえ直されるのだろう、という文脈を背後においた上で、その「関連」を考えてゆこうではないか、という内実を、私は想定している。
 カントのテクストにおいては、そうした古代からの形而上学的文脈での「親和性」と、19世紀以降の主に化学革命以降の化学的親和力へと通じる「親和性」がない交ぜになっている。私はその事を十全に確認したい。それも先月も述べた19世紀のダーウインの進化論での「生物」の扱いと、化学の進歩での「物」「物体」の扱いを、上述の「生物学的唯物論」を参照しつつ思考する中で。更にはストア派でのそうした唯物論の扱いを参考にしつつである。
 付け加えれば、19世紀以降の唯物弁証法とは異なる唯物論を、そうした親和性を追う中で明確にする算段を私は持っている。物質に還元され得ない、しかし物体ー身体の相互浸透(相互作用)における親和性に、私は光を当てたい。

 では、先に述べた十全なる確認をどう手がかりを得つつ行うか。これをマイケル・フリードマンの『Kant and the Exact Sciences(カントと精密科学)』(ハーバード大学出版局・1992年)の最終章他を参考に二つほど挙げてみよう。
①カント最晩年の遺構『オプス・ポストゥムム』において、生物科学(生命体)を理解する新たな試み「移行」プロジェクトがあり、そこで有機的身体・有機的存在と言った注目すべきconceptを、カントが提示していたこと。
②さらにはその遺構において、「熱素」が存在するという主張が、自然科学の形而上学的原理には属せず、物理学にも属せず、前者から後者への「移行」のみに属する、とフリードマンがしていること。
 これら①、②の内の①の有機的身体は、初ストで言及されているストア派の物体=身体と対照すべき点があると思われる。又、カントは宇宙を有機的身体としてるところがあると思われ、これも初ストの江川隆男氏による解説の「ストア派における宇宙は一つの身体である」(P150)に或る意味で類似した発想と思われる。
 更に②の(自然の)形而上学的原理にも物理学にも属さず、「移行」のみに属する、は、初ストの江川解説のP124で、「自然哲学」が、反形而上学的で反物理学的とされていることに重なり、又同初ストのブレイエの文のP34で、表現可能なものは、展開に従って獲得された概念の例として「場所」と共に挙げられていて、この展開とは、思考がある部分から別の部分へ「移行」することを含意しているという部分にも興味ある重なりを見せていると、私は思う。形而上学的思考から物理学的思考への「移行」という「時間」経過が存する「場所」そのものが、そこでの「身体」(①でも挙げた)のことと共に考えられている、そこが私にとって興味深い。思考を司る「言語」の身体性のことと共に。
 ここには、移行の場所性と有機的身体というモチーフがありそうである。

 さて、ここまで参考にしてきたフリードマン氏の『カントと精密科学』の序章は、ライプニッツ形而上学ニュートンの自然哲学(と物理学?)の論争の調停が取り上げられていたが、山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(筑摩書房・2008年)1巻でも、第6章「能動的作用因としての<エーテル>」でその論争は取り上げられ、ニュートンがクラークと共にどう主張したかが描出されているが、その一つの言明がニュートンの『プリンキピア』の《疑問28》の言葉として「非物体的で生命ある知性を持った遍在する存在者があり、それが無限空間において・・・・・諸事物自体を詳細に見透し、それらを隅々まで感知し・・・・・・完全に掌握している」であった。
 又、青木茂氏の『個体論の崩壊と形成』(創文社・1983年)によれば、ライプニッツが「活力」を扱った形而上学は、デカルト幾何学を扱った空間論とあわせて、カントが調停しようとしたものであり、その中でのライプニッツの動力学は、ストア的であるとの事である。 

 非物体的で、生命と知性があり、或る個体の唯一的な運命を掌握する。こうした存在の(広義の)「身体」、あるいは「有機的身体」が、上述の「言語」においてどう変形するのだろう。この「非物体的」は、ストア派でのそれと比較し、その比較をライプニッツ的動力学の位相の把握に適用すると、先に述べた元来の問いである「十全なる把握」はどう変容するのか? 

 それでは以上のような問いを起こしつつ、以下に上述で表明したが如く、カントKrVの「理想論」のB599〜B601で私が以前より注目する部分のテキストを以下の『』の中に引用・提示する。
なお、今回のブログでのカントKrVのの引用は、光文社の古典新訳文庫の中山元訳を底辺に置き、適宣、言葉を多少変えていくこととする。

『規定可能性の原則

おのおのの概念は 、その概念自身のうちに含まれていないものについては規定されていないのであり 、規定可能性という原則にしたがうことになる 。この規定可能性の原則とは 、矛盾対当の関係にあるあらゆる二つの述語について 、その一つだけがその概念に帰属しうるという原則である 。この原則は矛盾律にしたがうものであるから 、認識のすべての内容は無視して 、認識の論理的な形式だけに注目する純粋に論理的な原理である 。

〈汎通的規定性 〉の原則

ところでおのおのの事物はしかし、その可能性から考えるかぎりでは 、汎通的に規定される [ことができる ]という原則にしたがうものである 。この原則は 、それぞれの事物について示されうるすべての可能な述語について 、それと反対の述語と比較した上で 、 [その述語か 、それともそれと反対の述語かの ]どちらか一つがその事物に属することを求めるものである 。この原則はたんなる矛盾律にしたがうものではない 。というのは 、この原則は 、一つの事物をたがいに矛盾する二つの [矛盾対当の ]述語の関係において考察するだけではなく 、おのおのの事物を 、事物一般のすべての可能な述語の総体のうちで 、すなわち可能性の総体のうちで考察するからである 。そしてこの原理は 、これを [すべての事物について 、このような可能性の総体が存在することを ]アプリオリな条件として前提するのであるから 、それぞれの事物は 、それがそれぞれの全体の可能性において持つその〈持ち分 ・分け前〉のうちから 、みずからに固有の可能性を 、いわば取りだすとみなすのである (※注) 。
だから 〈汎通的規定性 〉というこの原理は 、たんに論理的な形式にかかわるのではなく 、その内容にかかわるのである 。この原理は 、ある事物の完全な概念を構成するために必要なすべての述語を総合する原則であり 、二つのたがいに対立する概念のうちのどちらかを決定するようなたんなる分析的な観念の原則ではない 。この原則にはある超越論的な前提が含まれている 。すなわち 、すべての可能性のための素材には 、それぞれのものの個別の可能性のためのアプリオリな所与が含まれているべきであるという前提が含まれているのである。

可能性の総体 (注 )

それ故、この原理を通じて、おのおのの事物は 、 [すべての事物に ]共通する相関者 、すなわち全体の可能性とかかわることになる 。この可能性の総体 、すなわちすべての可能な述語のための素材が 、唯一の事物(の理念のうち)に見出されるならば 、それはすべての可能なものの 〈親和性 〉を 、これらの 〈可能なもの 〉の 〈汎通的規定性 〉の根拠が同一であることによって証明するものとなる 。それぞれの概念の規定可能性 [の原則 ]は 、二つのたがいに対立する述語のあいだの 〈中間 〉を選ぶことはできないという排中律の普遍性にしたがうのだが 、それぞれの物の [汎通的]規定性 [の原則 ]は 、すべての可能な述語の総体に 、その総体性にしたがうのである 。』

 さて、ここで今挙げたテクストで、まず私が何に取りあえずは拘りたいかを、嘗て自分が書いた修士論文とかなり重複するが列挙してみよう。

 文中の「親和性が証明される」というフレーズがどういうことか、を解明する。「親和性」への上述の問題意識のもと。
 そして、それらのことを「親和性」の意味の定義と共に探りたい

 では手始めに、上記の※の注は、※印の直前の文章に現れる「おのおのの事物」と「事物それぞれの全体の可能性」との対比に対応していることから始めよう。「おのおのの事物」と「全体の可能性」との対比である。これら両者はどのような関係にあるのか。そしてこれらの内の後者が、jedesでなく、einzigenな事物の理念に見出されるとしたら、親和性が証明されてしまう、というカントの接続法第二式を用いた、どちらかと言えば否定的ニュアンスの書き方は何の意味があるのか。
 おのおのの事物といえば、その辺にある正に事物ということかとも思われるが、唯一の事物というと、それは例えば神のことを想定しているのか。「一つしかないもの」と「おのおのの事物」との差異はどこに存するか。
 おのおのの事物が、その全体の可能性において持つ、その分け前から、それ自身の可能性が見出されるという意味であるカントの言い方は、その辺にある様々な事物よりも、一つ抜け出たような位置を与えられている唯一の事物(それが「神」ということも考えられる)にという意味なのか。それとも既に述べたそれぞれの事物は、お互いに共存しながら、しかし一つ一つに可能性の総体が見出されるとしたら、という意味なのか。 
 
 なぜこのような疑問を持つかと言えば、この※の中の「共通の相関者(関連しあうもの)」はnämlich(いわば)全体の可能性と言っている点が解せないからである。もし単にそれぞれの事物があり、そこから一歩抜け出た唯一の事物が神として在るというならば、その唯一の事物、神が共通の相関者と言ってもおかしくないのに、なぜか可能性の総体が共通の相関者だとカントは述べる。
 「相互に関連しあうもの」の中に共通のものが埋め込まれて形成されるのに、そうでなく、つまりそのような相互性から一歩上に出た唯一の事物の中に「可能性」の総体が見出される時、「親和性」が証明されてしまうということなのか。しかしこれは"親和性"という言葉への解釈にもよろうが、相互に関連し合って(共存している)いるものの中に「親和的」な関係が成立しているというなら解りやすいが、それとは違う可能性として書かれているように見える。"唯一の事物の理念"に可能性の総体が見出される時、"親和性"が証明されるとはどういうことなのか。

 ただそれだけのものが相互に関連し合っている、即ち、「すべての可能性」としてあるだけでは、親和性は証明され得ないというわけなのか。それとも成立はしているが、証明はされえないということなのか。

 それではここで私がまず考えたい問題の一部を、取りあえずは二つにまとめてみよう。

①「唯一の事物」と「おのおのの事物」の「差異」はカントにとってどのようなものか。
②そうした「差異」を設けつつも、「可能性の総体」が唯一の事物に「見出される」時とは、どういう「時」あるいは「瞬間」なのか。

 ここで言及した「唯一の事物に見出される」時、「瞬間」について考えるのに、私はまず、KrVのB48付近と同B232付近の「唯一の時間」という概念を参照したい。いわば、それらパートでの「唯一の時間」の、時間のフレームでの「唯一性」が、唯一の事物に見出される「時」「時間」にどう響いているのかを探る為に。
 そうした上で、「現在只今」は存在し得るのか、それとも不在とされるべきかを考えつつ、いわゆるKrVの第一アンチノミーでの「空虚」を、どこまで「物体」の「不在」として(先月更新のブログを受けて)思考することが可能か、を探りたい。
 更にそうした中で、個物の唯一性は、そうした不在を前提とした中での現象なのかを抽出し、ここでの「物体/身体(有機的身体を含む)」がどう変形され得るかを抽出する。

かくして先月よりも更に、本ブログにおける研究の方針が具体的となった。

「『Affinität/Affinity(親和性・類縁性)』と物体の『不在(欠如)』としての『空虚』」をめぐって


    今回は、まだ未提示であったにも関わらず、私の免疫系研究にとって長年の重要なキーワード「Affinität/Affinity」を取り上げます。そうした中で、先月30日にこのブログに載せた「修士論文提示への前口上」で予告した、より具体的な研究方針の表示を行いたいのです。
 
   このキーワードは、明治学院大学大学院に修士論文を提出した後に、カントと免疫系を並行して研究する内に、重要なキーワードとして私の前にせり上がってきたのです。
   7年程前に放送大学大学院に、明学よりもカントプロパーに絞って提出したもう一つの修士論文のタイトルは『「親和性が証明される」とはどういうことか』というものでした。免疫系について研究する内に自分の中に身ごもってきた問題意識を、カントにおける「親和性」というキーワードで考え進めてみようではないか、という意図のもと、書いたのです。この「親和性」という言葉の英語での言葉こそ上述の「Affinity」です(カントの書くテクストのドイツ語ではAffinität)。今回、単なる親和性ということだけでない広がりを持たせようとしているので、あえて「Affinity」としました。具体的に書けば、私が前回のブログで書いたダーウインが発見したことについて、ダニエル・デネットが自らの単著『ダーウインの危険な思想』(青土社・2000年)で論じたこととの関連でそうしたのです。即ち、ダーウインの『種の起源』の第13章で「生物相互の類縁性」が論じられるところで「類縁性」を「Affinity」としていることといずれ関連付ける可能性の為です。
   ところで、私の放大提出論文執筆では、カントの『純粋理性批判』(以下KrVと表示する)の「純粋理性の理想」という章の或る部分の注の「親和性」を中心に取り上げました。この部分の「親和性」について集中的に取り上げる研究というのは、多分あまりないものと思われます。しかし、KrVで特に「個体性」ということについての大切なパートでの「親和性」だからこそ、免疫系を素材にして、生命の「個体性」がなぜ生じるかを考えようとしている私としては、その部分を中心に取り上げる必要を感じたのでした。
   ただ、その執筆の際に「超越論的論理学」というKrVの中の章の「論理学一般について」という節の中の、後でも論ずるワンフレーズ「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)を、「指示」と「個体」をめぐって参考にした上で、「盲目的偶然性」のことは、カント的な「空間」を取り上げる中で、不十分ながら論じられたものの、このフレーズのもう一つのキーワードである「空虚」について、私はほとんど論ずることはなかったのでした。
   だからこそ、今回、この「空虚」というキーワードについて、「物体の『不在(欠如)』」という見地から、かなり丁寧に分析し論じてみようではないか、と私は意図しているのです。
   それは4月30日にこのブログに提示した明学の「修論」提示の為の前口上で、免疫系の中心の「不在」について論じたことを受け、「空虚」を「物体の不在(欠如)」として論じたとする、初期ストア派についての、エミール・ブレイエの意見(『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』{エミール・ブレイエ月曜社・2006年}を参照しました)を参考に、カントのKrVのアンチノミーにおいての「空虚」が、そうした「物体の不在(欠如)」を、カントがいかに批判的に受け止める中で形成されたものであるかを、集中的に読み込んでいくことは、それなりに有意義なのではないか、と私は考えるのです。しかも、そのことを同じくKrVのA版の演繹論での「物体」と、先述の「理想論」の親和性を取り結ぶ「結節点」として論ずる。
   私は、放大の修士論文において、A版演繹論での「親和性」概念を、「物体」とそれへの視点の無限の位置の可能性について関わらせる中で論じ、そこで「盲目」というキーワードを出してきたのですが、今回はその中での「物体」を、上述の如く「空虚」との関連を詳細に考慮しつつ論じて直してみたいのです。そしてそこに、フレーズ全体は既に先に挙げ、後述もする「内容なき思考は空虚」とするカントの考え方を関連付けたい。
   ここで「物体」、英語ならBody、ドイツ語ならケルパーというのは、いわゆるその辺に転がっている物体という意味から、人間を含めた生命体の「身体」というような意味、更には宇宙空間全体、という時の「空間」を「身体」と表現する際に、それらを「物体」、ケルパーというように形容することを内含しています。カントの『遺稿』は『オプス・ポストゥムム』と呼ばれているのですが、その中で、有機的身体、ドイツ語でオーガニシェン・ケルパーというキータームが出て来て、それはいわゆる地上の生き物に備わる「身体」という意味だけではなくて、宇宙の空間(全体)という意味をも含んでいます。こうした三重の意味での「身体」(物体)での、中心として機能する「物体」の「不在(欠如)」ということを、私は今回このブログで拘って考えたいのです。
   それは、免疫系が脊椎動物の身体において、宇宙空間全体のどこからのモノ、物体が異物として襲って来ても、ちゃんと対応する、という「コト」、「出来事」を背後に考えています。
   ここで私の問題意識を言い換えて、まとめれば、中心が不在なのに、或る種の物体の相互関係において「親和性」が生じる、その空間性はどのようなものか?となるかもしれません。
   あるいは、事典『哲学の木』(講談社・2002年)の「観測」という項目において「観測は任意の物体が他の物体からの影響を受ける運動において実現する」(松野孝一郎氏による)という記述がありますが、免疫系が中心的に指令する物体がないのに作動する「出来事」を観測する、そうしたことが前提になっていると言っても良いのです。(注1へ)
   そして、先述のように「アンチノミー」、「理想論」へと、そうしたKrVのA版演繹の「物体」(とその触発)とそこからの広がりを関連付けていく。  今回開始したブログは、まずもってこの流れで議論を前進するものであるべきと、私は判断しました。
 
   さて、ここまで述べてきた問題意識を、もう少し歴史的に位置付ければ、カントの主に生きていた18世紀から19世紀における或る側面におけるAffinity(Affinität)、親和性を考慮に入れることも予定しております。
 
   一つは化学(史)的意義において。
   もう一つは既述のように進化論的見地において。
 
   親和性は化学的概念として登場する側面がカントにおいてはある。例えば『自然科学の形而上学的原理』にそのことは如実に現れている。カントにおける親和性概念について考察する際には、カントの生きていた当時の状況におけるこの概念と共に、旧来からの形而上学及びそれへの批判を視野に収める必要がある。それは物理学、化学を含めた当時の科学に依拠しつつ、形而上学を批判的に検討していったカントの姿勢を視ることであると言っても良い。
   そして更にカントの死後の19世紀の科学の内実での化学的親和力、親和性を、そうしたカント存命中の(主に18世紀の)科学の化学的親和性概念と共に考察する必要がある。
 
   一方で、カントが亡くなった後の19世紀に成立したダーウインの進化論の前史として、類とか種の間の「親和性」を論じていたカントのことをも考慮せねばなりません。「種の起源」第13章においては、生物相互の「Affinity」が「相互の類縁性」として論じられている訳ですが、それに通じる論議の枠組みが、例えばKrVの弁証論付録において、あるいは判断力批判(以下、KdU)の第一序論にあると思われ、このこともいずれ確実に自らの議論に入れるつもりです。(注2へ)
 
   そして、こうした19世紀の二つの事象を十分に考慮に入れつつ、20世紀末から現在にかけての、免疫系の研究における「Affinity」(親和性)において、生化学的に免疫系の有様を、例えば抗体の進化をも考える、という視座の確立を成し遂げたいのです。
 
   ところで、こうした視座の確立において、やはり必要なのは、「時間」への私の認識機構の関わりを、カントのテクストにおいて如何に抽出するかであります。
   実は私はこの抽出に、先の(本ブログでの4月30日提示の)「前口上」において予告した、anzeigen/angebenというタームのカントのテクストにおける使い分けに注目して分析するアプローチを使用したいのです。そのことをここから仮説的かつ予告的に少し説明しましょう。本当にその分析を正しいとして実行するかは別にしてであります。
 
   してみれば、カントはKrVの「超越論的論理学」章の「論理学一般について」において「概念なき直観は盲目であり、内容なき思考は空虚である」(A51/B75)としていますが、そうしたカントにおいて、対象認識は、或る表象を「指示」する受動性と、更にその上で「表示」する能動性という二つの要素から構成されると言えるかもしれない、と私は或る知人から興味ある示唆をされた事があります。
 
   ところでそうした示唆を参考にしつつ、私が見定めようとしたところによれば、anzeigen(以下ANZ)とangeben(以下ANG)は、そうした「指示」、「表示」ということと、イコールでないまでも、対応したものがあると考えられるのです。そしてこの二語の使われ方が交錯するところに「親和性」が立ち現れると、私は仮説を立てているのです。
   即ち素材としての諸現象は、内なる理念や外の或る物、あるいは物自体と言っていいモノ、コトを「暗示する」というところにANZは使われ、その暗示を通じてその物自体を「指示」するというような概念構成となっている。
   例えば、「現象という語は既にあるものとのANZ(暗示)している」(KrV・A252)というような一節がKrVのA版の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という章にはある。又、「判断力批判」(以下KdUと表示)では「悟性は、自己のアプリオリな法則が自然に対して可能であることによって、自然が我々にはただ現象として認識されるということを証明し、従って、同時に自然の超感性的基体をANZ(暗示)し」とある。同じくKdUで、物自体は超感性的なものであろう(ⅩⅠⅩ)とカントは述べていますが、言わば現象が物自体を暗示するというわけです。
   そしてそうした中で、「光」を通じて或る対象が「視覚」に示される、しかも恐らくは直接的に、非推論的に或る形、形相が「示される」というところにANZが使われています。他方、或る超越論的理念が、虚焦点として、岩波文庫訳の但し書きを使えば、「光」がそこから発出するかに見える、鏡像の想像的焦点として「示される」というところにも、ANZは使われています。
   あるいは第三類推の実体間の「相互性」について述べられたところでは、カントは「我々の眼と諸天体との間にゆらめく光が、我々と諸天体との間の間接的相互作用を生ぜしめ、これによって天体と我々との同時的存在を証明する」として、「視覚」と対象そのものの相互性が、光を介して生じるという文脈があります。
   一方でANGは、経験の可能性、及びその条件、さらにはそれらが成立する根拠が「示される」というところ、もう一つはその可能性、条件に従って、あるいはそれらに従った上でのカテゴリーによって、感性に「与えられた」現象をフェノメナとして明文化し、「示す」というところで使われており、言わば、上述の「表示」ということに関わる、一連のプロセスを「示す」という所に使われていると思われる。与える(geben)ことをされつつ、なおかつ示す(という能動性を持つ)という使われ方であります。
   そしてそうしたプロセスにおける受動と能動との、あるいは感性と悟性との「比例」(ratio)ということは、ratioのもう一つの意味である「理性」ということに重なります(又それが量的認識である時は、「比量的」ということにも重なります)。
   さらに一方で、ANZは直接、人間の「視覚」に「形像」として、点や線や円が示されるというところにも使われている。線を引き、その中で対象をとらえ、受動ー能動のプロセスが機能するという所にANGが使われるとともに、そうした際の線形「時間」とか、その背後に前提とされる空間性が「示される」というところにもANZは使われている。言わば「視覚」に光を介して、或る対象のものとしての概念が結合されること、その方法が示される、ということになるのです。
   そこでは人間は、そうした「形像」に非推論的に関わっていき、知性が形相化される、しかしそうしたプロセスにおける受動/能動の「比例」に「理性」が関わり、機能する(形相を非推論的に受け止めつつ、受け止めた上での知性の形相化、形式化そのものの運動に、「親和性」が立ち現れるということには、中世のトマス・アクィナス以来の親和性理論と、そこでのスペキエスの伝統が残留している可能性があるかもしれません。)。
   こうしたプロセスの一つに、「時間」という対象そのものが、人間が線形時間を「書く」という行為において現れるということがあり、「点」という「形像(Bild)」の二つの間に一本の線が引かれ、現在という或る一「点」を定め(点時刻の設定)、そしてそれを(「光」に照らされたそれを)書いた本人が「視覚」において「視る」、さらにその視覚によって受容したものを明文化する、その中で過去を定めるというプロセスにおいて「時間」そのものが対象として立ち現れてくる。その中で、過ぎ去った過去の意味も初めて生成されてくるのです。
 
   こうした形像と視覚の「時間」的関係性を、冒頭の方に書いた物体と、その不在としての空虚という空間概念にどう関連付けていくか。今後、そうしたことを、上述のKrVのA版演繹論での「物体」とアンチノミーでの「空虚」、更には「理想論」での「Affinität/Affinity(親和性)」との関連において探求するというのが、目下今のところの私の具体的な研究方針なのです。
   カントでのと物体の「不在」としての空虚が、ここに解明されていくはずです。
   それでは、来月(6月)末日には、その解明の一歩を踏み出すことにしましょう。
 
   (注1)
   比較的最近の松野孝一郎氏が生命を論ずることを、親和性や親和力に着目する形で行っているのを、私は2017年4月29日に初めて知りました。しかしこの私のブログの読者が、もしそうした松野氏のそうした傾向を知っておられて、しかも「観測」について私が松野氏の文章を引用しているのをご覧になると、私の親和性についての議論そのもの、あるいは今回の研究全体が、松野氏の影響のもとに行われようとしているかのように思うかもしれませんが、それは誤解です。
   私が親和性について、免疫学を素材とした自己区別の研究をする中で追求しだした1998年位から、そうした「親和性」については、拘って探求を開始し、論文にしてまとめたのが2010年です。
   松野氏がいつから「親和性」に拘り出したかを私は知りませんが、そのことを私が知ったのは兎にも角にも一昨日なのです。
 
   (注2)
   KrVの「弁証論付録」で、形相間の「空虚」と「親和性」の関係に言及した重要な箇所も、上述の研究の進展、特にダーウインの著作や生物の類と種との関連に大事なのですが、私は今回はそれには言及しません。
    しかし、そう遠くない将来に、私はその言及を行う予定です。

修士論文「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(要旨) [PDF/2.4MB]

 

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(本文) [PDF/24.5MB]

 

田中聡「人間と自然の関係についての哲学的基礎──免疫系における可能性と現実性」(訂正表) [PDF/631KB]

 

「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」をテーマのブログ開始のためにー私の修論掲載への前口上ー


   これからこのブログを始めるにあたり、自己紹介を兼ねて、本ブログにあともう少しで掲載することとなる極めて拙い修士論文(以下、修論と表示)を、私がどういう背後があって書き、このブログでその論文を出発点としつつ、これから主にどういった課題を、どういう方向性で考察していくか、その考察の拙さをどう改訂していくかを、まず今回は表出しておきたいと思います。
    殊に、免疫系での自然的記号の作用が、どう人間の志向的記号と異なるのか、あるいは異なりつつも重なるのか(修論22ページ8行目からの「免疫系が自己言及しながらある規則を」で始まる段落と同51ページ3行目からの「ここで先に書いたこと」で始まる2つの段落と、両者の文脈の相関関係を参照)。その差異を差異そのものとして存立する方法として、カントによるデカルトのコギトの再定式化を当てはめたあたりが、私の修論では、挑戦しようとして、不完全燃焼で終わったところかと思われます。

 そのことを、アルゴリズムを或る種のシンタックスとして、それの多様な群としての個体性と、その意味の造成の問題として今回考え直したらどうなるのか?
    更にはそうした造成において、無限な外敵への対応への無限な視点を成立させる位相と論理はいかなるものか。
     この辺りを、やはりカントと共に考えていきたいのです。

 それでは、その始動を以下で拙いながら始めてみましょう。 

    私の元々のテーマは「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」であるのですが、そこに、自己中心性と自己超越がどう要されるかのインスピレーションを、更にはそれらの為の「時間」の枠組みの素材やヒントを多田富雄氏は与えてくれました。
 即ち多田氏の免疫系への観点は、無秩序から秩序が、個別性から社会性が、偶然性から目的が、無意識から意識が、非個体性から個体性が(生命体において)生じるといったこれらのペアの概念を、対立する二項対立とそれを調停する神の超越的視点・機能において捉えるのではなしに、そうした視点・機能の「不在」において、自己超越を孕んだ或る種の「時間(差)」を捉える形式・感官において捉え、その上でどう生じるかの技法を捉え出す端緒を、具体的な免疫現象において提示してくれたのです。言わば、極めて自己中心的であることが、そのまま、どこにも中心がない、中心が「不在」であることに通じるシステムを、アルゴリズム(後述)の群として造成する有り様をです。
     例えば、多田氏は、
「超システムは、内部のルールを自分で作り出しながら拡大してゆくのだから、当然目的はなくなる。それは自己目的化した、自己中心的システムとなる。」(『ビオス』1号』{哲学書房・1995年}の3ページより)とし、上述の「自己中心」という言葉を使っておられる。 
     しかも、これらのペアでの諸プロセスが、生命体での水平的で同時並行的に相互作用しつつ、遂行されることと、おそらくは多田氏の中では、位置付けられている。
    更には免疫系の自己区別の解明に際しての、物質的に還元する解明、説明をする事を行いつつ、(そうした還元ではくみつくせない)システムとしての全体性を解明する、という中での、還元する行為と全体性を捉える行為の違いを明確に認識しつつ、その違い、差異においてその行為の時間差と上述の「自己超越」を捉えるとば口を、多田氏は残して下さった。「無限」(後でこの概念については少し詳述させて頂きます。)の外敵(細菌等の)の可能性と、それへの対処をする有限の物質の集合のシステムへの認識において。
     自然淘汰、自己組織化といった現象が、偶然か目的に沿ったものかという二者択一ではなく、前者から後者へと生じるという枠組みにおいて考えるヒントをも。
 そしてその遺産は、ニールス・イエルネのネットワーク説を批判的に継承する中で成立していると、私には思えます。
 即ち、反応するかしないかという「意志決定」をする上部機関をシステムの中に持たない(即ち、そうした機関が「不在」である)免疫系のネットワークが、「なぜ反応の大きさ、方向性、時間、質などが決定されるか」という問題にイエルネはうまく答えられなかった、という事を多田氏は『免疫の意味論』の第三章「免疫の認識論」の70ページで書いておられますが、予定調和的な完結したシステムの説明としてのネットワーク説において、「時間」そのもの(それは線型時間そのものの「存立」と「選択」をも含む問いかもしれません)の在り方が、なぜ決定され、制作されるのか。そうした時間そのものの決定・成立への問いがここで起こされ、それを踏まえて、自己超越の形式が捉えられている(もしくは捉えられることが模索されている)。
      言わばイエルネのネットワーク説以降の物質還元主義的な免疫系への解明を十二分に踏まえつつも、更にそこで見出された物質の機械的な作用の生成やアルゴリズムを、十全に踏まえつつ超える、つまりは「超越」する(個体レヴェルの自己超越の)原理を見出すことは、むしろこれからの我々に任されている。
    それも線型時間と、関数空間でのその身体性を包括した、多様なアルゴリズムの可能性からの「選択」をも十分考慮に入れつつ、そうした「超越」を考える必要がある。
    ここで注目すべきこととして、ウンベルト・エーコ氏が、1986年に多田氏と共に行ったワークショップで「一番簡単なシンタックスの形態は、アルゴリズムです。」(田中祐理子訳)と発言したことが挙げられます。
    言わば、そういう「一番簡単なシンタックス(統語論)」たるアルゴリズムをいかに単数なり複数なり「選択」し、発明するかを受け止めた上で、それだけでは機能しない個体の、コミュニケーションの「意味」が造成されるかを考慮し、その上で「セマンティックス(意味論)」を構築しなければならない、私はそう推測するのです。それは自然的記号では尽くせない、志向的記号を浮き彫りにしていくことを伴う可能性があります。
 これらの事に、私はセンシティヴになりつつ、多田氏の免疫の「意味論」をこれまでも現在も受け止め、又これからもそうしていきたいのです。
  因みに多田氏は「『超システム』は、多様な要素を作り出し、また多様なアルゴリズムそのものを作り出し、それを選択しながら自己組織化していくシステムである。」(上掲の『ビオス』1号の5ページより)と述べております(私は自分の修論の34ページの11行目から16行目 でここを引用)。
 ところで、こうした言明に通ずることを、ダニエル・デネット氏は以下の如くに述べています。
ダーウィンが発見したのは、実際には<一つの>アルゴリズムではなく、むしろたがいに関連しあった、大きな一群のアルゴリズムであったのだが、ダーウィンはこれをはっきり言い表すすべがなかったのである。私たちは彼の基本思想を、今ではつぎのように定式化し直すことができる。
 地上の生命は、たった一本の枝分かれする樹ー生命の系統樹ーをとおして、何らかのアルゴリズムのプロセスによって、何十億年もかけて生み出されてきたのだ。」
 こうしてデネットの文章を参照して考えてみると、言わば単一ではない、一群の多様なアルゴリズムそのものの生成の基本原理に多田氏は関心があった可能性がある(ここでの系統樹のことは、後でモンドリアンの「樹木」と関わってきます)。
    そしてその「基本原理は不明だし、まだ解明されてもいない。だから『超システム』は、それを対象として解明するための設問を示したに過ぎないのだ。」と多田氏は上述の引用箇所で述べておられる。
   私はその設問に、何とか挑んでいきたいのです。

 さて、これまで述べたコンテキストでの自己中心性を踏まえた自己超越をする「時間」とアルゴリズムの選択への多田氏の関心の高さは、「生命誌」で「歴史」といういわば「時間」に関連した探求をしておられる中村桂子女史と、「どうも同じ方向を向いているようだ」と多田氏が仰り(中村女史によれば)つつ、対談等のコラボレートをされたり、東京大学を定年退官された後に赴任された東京理科大学生命科学研究所で、時間生物学に関心を持たれていたらしい(20世紀末頃にその研究所のホームページをみた時、時間生物学〈時間免疫学?〉を専攻にしておられた記憶があります)ことからも推測出来るのではないでしょうか。
 更に、その研究所を退官された後に出版された「免疫・『自己』と『非自己』の科学」(NHK出版・2001年)で多田氏は、
「こうして成立した『超システム』は、遺伝的に前もって決定されていたシナリオ通りに動くわけではない。さまざまな環境条件や偶然性などを取り入れながら、時間的な記憶を持った創発的なシステムとして、個性に富んだ行動様式を自ら作り出してゆく」(P210)とされ、やはり「時間」への関心を、前もってエスタブリッシュされた全体的なシステム(イエルネが説明したような)に欠けている要素として、多田氏は持っておられたように見える。
   例えば、「『私』はなぜ存在するか」(哲学書房・1994年)に収められた中村桂子女史、養老孟司氏との座談会で、多田氏は、
デカルトが『コギト』と言った時から反論はいくらでもあるんですけれど、一番はっきりしているのは直覚的自己ですね。その直覚的な自己にはどうしても勝てない。」(P53)とされた上で、「直覚的自己というのは時間とともに変わりますよね。」(P54)
と述べられ、更に子供の頃の自分はほとんど他人だと思っていて、「両棲類では成熟してから幼生に対して免疫反応なんか起こるんですね。」(P55)とも仰っている。
    いわば、「時間」と共に、生の様相と目的が変化することが、上述の直覚的自己のことにおいて述べられている。
    変化してしまい、もう自分とは分からなくても、しかしその変化する以前の自分を自分に帰属することができる。そういう自己を多田氏は前提にしておられる。
 
   しかし、こうしたことを考える時にすぐに難儀なのは、免疫への科学的で物質的な分析の前提となるリニアな線型時間やそこで措定される免疫的記憶を取り上げることを基盤にしつつも、その基盤における分析の限界を明確に自覚した上で、そうした線型時間そのものがどのように制作されるのかを考えなければいけない点です(それは後述する、中島義道氏の「超越論的」への狭義の定義に重なるものです)。
    そこに私は、(中島氏の解釈した)デカルトのコギトを再編して出来た、カントの「超越論的」な統覚、更にはそれを前提とした超越論的判断がどう必要とされるかを考えようとしたのです(本来ならば脳神経系の担う記憶と免疫的記憶の差異を位置付けるべきでしょうが、未だそれを出来ていません)。

  中島氏は、カントの「私は考える、はすべての私の表象に伴いうるのでなければならない」(『純粋理性批判』B131f)を、カントによるコギトの再定式化であるとしておられる(中島義道氏の1995年の慶応義塾大学での特殊講義レジュメで、私は初めてそれを知りました。私の修論の52ページ参照)。
 主体的に「私は考える」こと(更にはそこでの直覚的自己も含められるか?)は、個体性から生じつつある主体性としての「私」の表象に伴いうるのでなければならない。そのように表象される人間(多田氏が言うところの変化し続けるそれ)の主体性が必然的であるとする決定論でさえもが、人間が「過去」の記憶を、可能的に構成して成立しているものである。
 たとえ、昨晩に大酒を飲んで、自分が何を言ったか、やったかを思い出せなくとも、他者からその有様を聞いて、それらの過去の行為を自分に帰属させることが出来る。それがすべての私の表象に伴い得るコギト、私の思考作用であると出来る、その在り方を捉えだしたのが、カントの再定式化したコギトである、と中島氏は述べます(「『私』の秘密」・講談社・2002年・P10~14)。

 ここではそもそも、「時間」において、人間が何かを「決定」すること、あるいは「決定論」的に語り、考えるとはどういうことかそのものが問われている。
 進化にせよ、免疫現象にせよ、過去から現在にかけて「決定論」的にすでに何らかの自然法則において決定しているのか。そのことを人間が(人間の一部の科学者が)意志「決定」するとはどういうことか、という様に。
 言わば多田氏のお仕事においては、上述が如く、偶然性から目的が生じることと、個体性から主体性が生じることとが、同時並行的に捉えられているが、これは主体性を持つ科学者が意志決定することそのものが、過去から現在にかけて、主体性が個体性から生じる現象において捉えられることを、具体的に提示していることに他ならない。   (    その結果、「〈私〉としての科学者は考える、はすべての『個体性から生じる主体性としての〈私〉』の表象に伴いうるのでなければならない、と上述のカントのコギトの再定式化に当てはめて、そのことを位置づけることが出来る、だろうか、などと私は推論しているのですが、まだ確証はありません。申し訳ありません。)

 してみれば多田氏は、上記の座談会で養老氏から「免疫的自己というのは実在なのか抽象なのか、どちらでしょう。」(P47)と問われ、
「免疫学的な自己というものがあるかというとそれはない。自己ということがあるんだと私は思っています。ことというのが実在かどうかは考え方によって異なります。」(P47)と答えられた上で、「『自己というもの』があると考えるよりは、自己の行動様式が後天的に決まってきて、その行動様式そのものを自己といっているにすぎないのではないか」(P48)とされている。これは言わば、自己という「もの」は実在はせず、しかし「不在」という在り方、もしくは「出来事」としての存立に棹差すと言えるということか?
 この多田氏の考え方を、先のカントのコギトの話に当てはめれば、後天的に生じる自己の行動様式としての「私」の表象を、「後から」自分に帰属するものとしうる、そういうコギト、私の思考作用の在り方が、超越論的統覚と言えるのかもしれない。それは勿論、上述の科学者の科学的探求行為にも内含されている。

 ところで免疫系の中で、殊に<偶然性>が大きく機能している分子の役割を考えあわせるとき、そのようなカントの当時には考えられなかった性質を孕んだ現象に対して、決定論的な自然法則を或る程度前提にしたカントの認識論と「時間」において、既述の個体生成を理解する主体性は、「過去」にどう対し、時系列のどこにその行為を始める動因を置くべきでしょうか?
    言い換えれば、物質的で客観的に免疫現象への分析をし、描写するのが、決定論的でありつつ、そこに「偶然性」を取り入れることを、どう解決するか。
 中島氏は、『カントの時間論』(講談社・2016年)において、「カントにおける客観的時間がニュートンの絶対時間とは異なり、それ自体としてではなく、あくまでも運動する諸物体の動力学的な関係との相関で理解されていることを想起しなければならない。」(P103)
とする。そしてそこに「私の身体も、世界の中心に存在して、絶対空間に直接的に関係するような身体を意味するのではなく、超越論的主観と根源的に関連し、このことを通じて、常に空間関係総体の起点として機能するような身体、いわば『超越論的身体』を意味するようになる」とも述べる。
      又、中島氏は『事典・哲学の木』(講談社・2002年)での「超越論的」という項目において、「(別の語り方ではなく)物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」」とし、狭義の「超越論的哲学」とは「物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わること」(P718)とされている。
  前述の「超越論的統覚」に関してにせよ、「超越論的身体」に関してにせよ、ニュートン的な時間・空間を前提しつつも、しかしそれだけではなく、そこで運動する(人間の身体を含めた)諸物体の動力学的な関係との相関で、客観的時間が理解される、と言えるでしょう。
 してみれば、免疫科学の前提とする時間は、上述の<偶然性>をめぐってもニュートン的な絶対時間と異なる面を持ち、又私が免疫学と関連づけたいカントにおける客観的時間は<身体>をめぐって、ニュートン的時間と異なる面を持つ。ここで私が今まで書いてきたことが本当ならば、こうした二つの「異なり」、すれ違う面があるようである。これらのすれ違いをどう埋めていくか?更にはここでの身体と免疫的身体の異同は?
    これらを考えなければならない。
    正に、上述の「超越論的」の定義での、「世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。」という問いが、これらのすれ違い、異同をどうするかに、現れていると、私は考えます。
 これらのことへの思索で私は長い間、なかなか上手く解決出来ず、放送大学大学院で書いたカントについての論文『親和性が証明されるとはどういうことか』では、視覚と相互作用から親和性を捉え出す中で、カントが『純粋理性批判』で提示した「盲目的偶然」と無限空間、及び無限の「視点」(上述の超越的視点の「不在」は、そういった無限性、限定の「不在」と共に考察する予定です。)との関連を取り上げつつ、そうした問題を模索したのですが、全然成功していません。 

      ところで、今述べたように、上手くいっていないにせよ、「身体」と「無限空間」や無限の視点への私の問いには、私の中でどのようなバックグラウンドがあるのか。それをとりあえずこの文章では、以下で説明してみましょう。

     そこには広義の「自然とは?」という問い、更にはその自然への「個体の内と外とは?」という問いがあり、それを現代音楽を含む現代アートに通底する問題として、私は考える時があるのです。
     こうしたことを私は「機械(論)的」であることへの視点から、心と物・世界を二元論的に分けるのではない中での世界の立ち現れ、更には自己区別についての「境界」へと自分の問題が移行していったことに準じて、考えたりもします。
     ここで、そうした議論にとって重要である「個体」と「主体」へ、極めて不十分であることを重々承知で、議論を始めるためのみの暫定的定義を与えておきます。
 個体とは、自己同一性を表出するための外的な記述によって、その性質が表されるものである。主体とは、そうした自己同一性を表出しつつも、そこでの外的記述に留まらない自己規定をも、(自然、世界における)広義の外部との相関関係において表出する、あるいはされるもの。又はそうした中で他者であれ、外の「世界」であれ、何らかの「外」から何かを受け取り(把捉して)、又同時に「外」へと何かを発出すること、その過程で現れる相関関係の持続の(統一ある)表象が主体と言える(そして「個体性」「主体性」はこれら「個体」「主体」の「性質」である)。
   それでは、その自己同一性の内の「同一性」とその指標をどう定義すれば良いのか?この辺りの一連のことを物質の内実とその変化と、その物体としての表れを、電子の実在性等を考慮に含めた機械論的自然観を考慮しつつ考えるとどうなるのか?このことには一筋縄にはまだ答えは出せないものの、自分の来歴や過去の思索からどういうことをこれから自分が考えるべきかを少し示すくらいは出来るかもしれない。以下からそれを開始してみましょう。

    私は小学生の頃に、コンピューターによってプログラムされ、コントロールされた演奏をするシンセサイザー音楽によって音楽に目覚めました。その音楽経験は、音楽の作り手のメッセージを受け取るという側面よりも、機械的な音とリズムに接することで、世界の立ち現れ方を変えていく側面が強いものでした。作曲者の内面を演奏者の内面で解釈したものを、人間の肉体で演奏する、そうする中で作曲者・作詞者等の内的メッセージを読み取ると言った関係ではなく、機械的で人間の肉体性を徹底して抑えた上での演奏をされたものを聴くことで、むしろ逆にイマジネーションを強く世界へと向け、世界の相貌そのものを変えていく、そう言って良いでしょうか。それは、小学生の頃に描いていた絵画も含め、現代アートの個体とその内外の相貌自体を変える程のインパクトが私にはあった。
   機械的なリズムやメロディーに接することで、むしろ自然における、機械的にのみには割り切れない生命の相関関係を孕む世界を立ち現わしめることが出来ていた。後知恵的に子供の頃の自分の感性を位置づければ、そうも言えるかもしれない。
   そうした過程はいわゆるメロディー性のある、楽音で構成された、現代で「普通」とされる(などというと何が普通なのかと語弊がありますが)音楽だけでなく、世界の相貌と相即的な何でもない音、ノイズ、環境の音を音楽として受け取る、更に翻って音楽の環境性を逆に注意深く観察する、そんな自分の志向性を造成した気が致します。それは、自然に現代音楽(ミュージックコンクレートやサウンドスケープ、そして「電子」音楽を含めた)を受け入れる土壌を自分の中に作って行った気も致します。
      そしてそうした中で自分に起きて来た問い。
     それは「誰かの何らかの『主体性』の内面としての心(作曲家や演奏家の)があり、それが表現したものを聞き手の内面が受け取るというのとは異なる、自己と音楽の制作者・発信者という他者との交信と世界の立ち現れ、という関係性を捉える際の『個体性』とは何なのだろう?」
   言い換えれば、「内面としての心と外部としての世界、という主観客観の二元論ではなく、世界を受け取る行為(「主体」)と世界の立ち現れ。そうした出来事の過程での『個体性』の輪郭、『境界』とは?しかも上述のように生命の相関関係におけるそれとは?」
    そんな問いと言えるでしょうか。ここでの相関関係とは、冒頭の個体、主体への暫定的定義と照らし合わせれば、外から何かを受容し、又外へと何かを発出することがそのまま自と他を区別することになり、主体性の発生に通じてゆく作用総体と言っても良い。
    ここでの問いに立ち向かう時、近代科学の進展において、世界に存在する「立方体」(cube)としての「物」の主観客観の二元論的表出とその克服ということがまず第一のラインとして考えられ、そのラインで得られた視座からする免疫系という生命の「身体」(立方体の一種としての)システムで定義された自己と非自己とそこに見出される生命の個体とその自他や外界への「境界」の科学的知識は重要な足がかり、言い換えればさらなるラインになる、私はそう思っているのです。このことは最後のまとめでもう一度書きます。
     一方で、そうした問いをシンセサイザー音楽から受け取ったことが、その後に多様な民族の音楽を柔軟に聴く姿勢、世間で一時流行もしたワールドミュージックにもそれなりに対応する自らの精神をも私の中に醸成した。そこでは人間、民族、国家という意味を含んだ自他の「境界」への問題意識が間違いなく内在していた、とも言えます。
   先に私は音楽だけでなく、現代アートにおける個体とその内と外にも言及致しました。
    現代アートというと多様な広がりにおいて捉えられますが、自他の「境界」とかその場所性ということが(そのように広げた中でも)重要なテーマの一つであると私は思っています。
 芸術を映画まで含めるのなら、テオ・アンゲロプロスアンドレイ・タルコフスキー大島渚は「国境」というものを扱う中でそうした境界を扱っていたように思います。さらにはユートピアを持てない人間にとって、自らの「場所」を求める際の境界についても。
 そして絵画において、そうした「境界」という事を考える時に私の念頭にあるのは、例えばピエト・モンドリアンの「樹木」の立方体的(cubic )に表現された絵画の様なものなのです。
 モンドリアンの樹木の描写の試行錯誤の過程において、いわば「物」(事物)としての樹木が、その具体的な形象を脱色化され、次第に抽象化されていく。
   そうした過程において、個体としての樹木とその外界の「境界」そのものが曖昧になっていく、樹木がある種の「場所」そのものになっていく。
    嘗て哲学者の大森荘蔵さんがキュービズムについて述べたことを参考にすれば、立方体は例えば机を例に挙げれば、机という物、即ち三次元物体と机の知覚正面という知覚風景(面として境界として空間に接する)の両義性、二元的性質において人間に現れてくる。そして立体形状の「意味」は任意視点からの見え姿、立方体の知覚正面の「無限」集合に内在するのであり、世界に存在する無数の立方体を描出するとは、事物をそのまま描写するだけではなく、限定された或る視点、或る場所からの描写という要素を抜いてゆき、「無限」な多様性をはらむ視点からの存在であることを浮かび上がらせていくことを内包し得るものである。こうした中で、机という三次元物体とその知覚正面の無限集合の意味とを、重ね合わせていく。
   それは樹木という立方体についても当然同じことが言える。そして無限の視点を想定することは即ち「空間の無限性」を表出することでもある。
    こうしたことは絵画としての技法の変容ということもさる事ながら、「境界」を超えた複数の国家等の様々な共同体からの視点を或る単一のものからの視点に限定するのではなく、(宇宙)空間の無限性に直面する「地球」とそこでの生命の連鎖の存在を表しているようにも私は思えるのです。
    更には、先に述べた多様なアルゴリズムを内含する系統樹としての進化の「樹木」のメタファーとも考えられてくるのです。
 モンドリアンが活躍した時代は、様々な科学的発見によって宇宙や生き物等を内包した広義の「自然」の構造が機械(論)的で物質還元主義的に次々に解明されていく過程であったことでしょう。やがて「量子力学の基本粒子の無区別性」も問題として浮上してゆく。そうした過程で発見された事実は、或る場所や或る個体であるからこその特性を脱色化していくものだったのかもしれません。樹木の葉なら、或る場所の或る樹木の或る位置(位相)にあること、色彩等を剥ぎ取り、分子レヴェルに分解、分析する。そして「立方体」としての側面が如何なる性質かを、「空間的位相」とその視点において分析せざるを得ないことがあからさまとなっていく。そうした還元主義的分析の流れを拒否するのではなく、むしろ大前提とする中で、上述の如く立方体の多面性に準じた(無限性を孕んだ)多様な視点を成立させていった、そんな歴史があるように私は思います。このことは電子の実在性を考える際の視点、更にはその視点成立の時間点・同一性)ということにも共通すると思われます。
 又、物質を細分化していって電子に行き当たったとします。この電子を暫定的に究極の実体と見て、この実体が位置を移動し、性質を「変化」する(例えば上述の樹木の葉及びその葉脈の電子もここでの議論の対象に含まれる)、その幅が「瞬間」ということになるのか。しかしそう言い切れない多くの要件があります。
 例えば素粒子はそれぞれ絶対区別出来ない。電子は「この」電子と「あの」電子は区別出来ない。「今」ここに電子があり、次の「瞬間」にも同じ場所に電子があったとする。その時、「ここ」にある電子は、一瞬間前にここにあった電子と区別出来ない、同じであるか、「同一」であるかは認識しえない。次の瞬間にもここにある電子は、さっきここにあった電子と同じだとか、そういう類いのことは一切言えないのです(先に述べた「量子力学の基本粒子の無区別性」)。
 これは当たり前のことであって、電子は完全に数学的性質で「記述」(上述の「超越論的」の定義を参照のこと)される。電子というのは自己同一性がない。数学的性質で完全に同じものは完全に同じものであり、完全に同じということは個性、さらには個体性がない。
 こうしたことから、電子Aが電子Bと同じであるとかないとか、そういうことが定義出来ず、その相等性によって、「瞬間」の切れ目、入れ替わりの表現をそこに見ることが出来ないとしたら、さらに「電子」が無機物であり、自己区別出来ないとしたら、「瞬間」はどう定義されうるのでしょうか。その入れ替わりに伴い得る視点は、どのように知覚正面としての電子を捉えるのか?
 それでも物質の分割にこだわらず、あくまで「個体性」を有するものを「実体」として、その変化、性質において、「瞬間」は指示されうるとするのか。しかし「個体性」自体の定義が一筋縄ではいかないことは、先に確認した通りです。
 しかしそうであるにも関わらず、上述の「個体」への定義での困難、循環を解きほぐしていく上で、是非ともこの「瞬間」について考慮しなければならないのです。
 それでは「今」という語はどうでありましょう。「今」と「今でないもの」、今と非今という概念の「区別」によって「瞬間」は規定されうるのか。しかしでは「今」とはなんでしょう。「今」とは現在只今の瞬間であるというと、これも循環的定義になってしまう。
 「瞬間」とは正にその語によって指示し、かつ指示される、という受動/能動の中にこそあり、嘗てカントが<表象>に二重性を与えたように、「瞬間」そのものが、「表象」として成立し得るのか、それも背後に「実体」や「基体」があるかどうかということ自体が定かではない概念なのだと私は推測しております。しかしそうであるにも関わらず、「瞬間」という語を使い、それにより内包されていく物事があるとしたら、それはどのようなものなのか。私は分からないながら、頭を抱えつつ、そう問うてしまっているのです。
   このような問いは現代音楽の分野で例えばかつてジョン・ケージがダニエル・シャルルに問われたことにも通じていくかもしれません。
「現代音楽は未来の音楽でも過去の音楽でもなく、現在の、まさしく今このときの音楽だと言うとき、あなたは、普通、時間の中に区別される三つの次元-過去・現在・未来ーのうち、真中のものに特権を与えているように見受けられます。しかし現在だけを-あるいはこう言った方がよければ、瞬間だけを-考えること、それは時間を十分に考えることなのでしょうか?そのとき記憶はどうなるのでしょう?ユートピア?音楽的記憶、音楽的ユートピア
   瞬間というのは、ひとつの神話なのではありませんか?」(『ジョン・ケージ著作選』(小沼純一編・2009年・ちくま学芸文庫)より「ダニエル・シャルルの33の質問に対する60の答え」から引用)
 さらに上述のようにして、幾何空間が無限に分割され細分化され(無限の視点の位置を得)ていくことと、そのような分割では分けきれない単純実体がどこかに存在しているのか。このいわば古くて今尚或る意味で続いている問題についてどう考えるかで、「瞬間」という時間「点」(幾何学的な「点」によって表出される。)への定義、及びこの語への「内包」ということ自体の意味が変わってくる。猿や花や木とは違って、こうした「空間(性)」の分割へ内包されていくか、もしくはそれをどう認識するかということが、ここでは絡んできてしまう。
   そして「同一性」が観測されないにも関わらず、電子が実在するという時の、無限に多様な視点からの知覚正面と、そこに電子が存在するということ。このことを主客二元論として分けずに捉え切るにはどうしたら良いのか?
 さらには空間の一部としての、(個体としての)「物体」という概念が、どう生成し、そうした物体が分割されていくこと、そこに実体が位置づけられること、このことを考慮に入れた上で、「瞬間」という概念を、さらにそのことの「意味」「内包」を考えなければならない。
   そうした中で、上で述べたように或る事物と空間の境界が曖昧になる。事物とそれが存在する場所・空間がどこで区分されるのか?
   さらにはそうした空間や、事物と空間の「境界」は、ケージに詰め寄るダニエルさんの言うユートピアを間接的に象るものなのか?
   このように問うことが出来るかもしれません。先に触れた映画と国境のことの反響と共に。
  
 この様に、「自然」への機械論的で科学的な観点に最大限の敬意を表しつつも、それ自体から生じた多様な視点と、そこから浮かび上がる生命の全体的な連鎖を扱う時、上述のように曖昧になった樹木と外界の境界を、意味論的にどう設定するのか。それがただ機械論的には割り切れないとしたらどうすべきなのか。私はそうしたことにとても関心があるのであり、繰り返しになるようですがここで先に予告的に挙げた事を言い直せば、多田富雄氏の『免疫の意味論』での免疫学的な生命の「個体性」の、身体という立方体においての「意味」論的な扱われ方、生命の自己区別(自己同一性)などは大変に示唆的であるのです。そしてこうした視点は、現代音楽、絵画、映画を含む現代アートにとっても示唆するものがあると、半ば直観的に考えているのです。
 科学的な観点にせよ先述の音楽での方法にせよ、「機械(論)的」であることを拒絶するのではなく、むしろ正面から最大限にしっかり受け止めた上で、しかしもう一回機械論的には割り切れない「個体性」の「意味」をどう構築し直すか。そして、物(外の世界での)と心の二元論へと分かれていること、「分断」を如何に克服するか?
    これは哲学的にも現代アート(現代音楽を内含した)的にも通底する問題であると、私は推測しているのですが、如何なものでしょうか? 
 
  こうした問題意識を、科学的問題、特に免疫の分子論を鑑みつつ、現代アート的な「位相」をも背景に私は考えようと思っております。

      特に、物質を無限に分割して原子、電子へと言及する際と、或るモノを無限の視点から、無限の側面から観測する、そのことによる知覚世界の描像の無限集合について言及する際の「無限性」、これら二つの無限性の重なる点と相違点については、冒頭に述べたどこにも中心がないシステムということからも、極めて興味深いものを感じながら、今回の文章では取り敢えずはその問題意識のとば口のみ示すに留めておいて、今後の課題とさせて頂きます。

(   上述の言わば「無限空間」の無限性が、生命個体発生における、いわゆる自己言及のパラドクスの無限後退と関数空間の「位相」に関わり、そのパラドクスから統語論と意味論の分岐が生じたという論理学の哲学の歴史を参照しつつ、そうした分岐が、かつて自分がカントの文脈を、anzeigenとangebenで分析した事に当てはまるのではないか、更には指示と記述ということに対応している可能性があるのではないかということをも、私は考えました。更に無限の外敵{細菌等の}の可能性と、それへの対処をする有限の物質の集合と免疫系の事をも。それらも全て今後の課題とさせて頂きます。

    そのカント読解について、ここまで書いて来たことも含めて、来月、即ち5月末日までに出来れば、より具体的な指針をこのブログで示させて頂きます。)